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【中国→日本の学問】

〈一覧〉
【儒学】孔子[論語]
【朱子学】
【陽明学】王陽明
【古学】
【国学】


【儒教】孔子
論語(儒学)
人間が正しい在り方を模索する思想
仁と徳
目上の人を大切にして君主に尽くす→
支配しやすい

[四書五経]
儒教の基礎的な書物である『大学(だいがく)』『論語(ろんご)』『孟子(もうし)』『中庸(ちゅうよう)』の四書と、同じく儒教の文献である『易経(えききょう)』『書経(しょきょう)』『詩経(しきょう)』『礼記(らいき)』『春秋(しゅんじゅう)』の五経を指します。江戸幕府は、儒教(朱子学(しゅしがく))を思想・教育の基幹としていたため

→【訓古学】

→【朱子学】
(新儒学)ゴリゴリの中華思想
12世紀頃 朱熹によって儒教が再解釈され、
道教を吸収することで朱子学が生まれる
→江戸幕府に影響を与える

【陽明学】王陽明
浙江省の出身で父も科挙に合格した知識人。朱子学を学び、28歳で進士に合格、官界に入ったが宦官と対立して退官。朱子学の考えを批判する新しい儒学思想として陽明学を生み出した。
→やっぱり朱子学はおかしい
書物を捨て街に出ろ
中国・朝鮮では反体制派・異端

→[考証学(こうしょうがく)]
→[公羊学派(くようがくは)]

王 陽明(おう ようめい、成化8年9月30日(1472年10月31日) - 嘉靖7年11月29日(1529年1月9日))は、中国明代の儒学者・高級官僚。諱は守仁、字は伯安、号は陽明子[注釈 1]。諡は文成侯といった。弟は王守文。妻は諸譲(中国語版)の娘と張氏。子に王正億(中国語版)、孫に王承勛(中国語版)・王承学・王承恩、曾孫に王先進(王承勛の子)・王先通(王承恩の子)がいる。養子は王正憲(叔父の王袞の孫[注釈 2])。

中国、明の王陽明が唱えた儒学説。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理しんそくり・知行合一ちこうごういつ・致良知ちりょうちの説を主要な思想とする。日本では、江戸時代に中江藤樹によって初めて講説された。

中国、明(みん)代の王陽明学派の学問。王陽明(守仁(しゅじん))は、当時の支配思想であった朱子学に対抗して、思想界の底流にあった思想傾向を継承し、人間平等観に基づいた主体性尊重の哲学をたて、万物一体の理想社会の実現を目ざし、心即理、知行合一(ちこうごういつ)、致良知(ちりょうち)のテーマによって情熱的な講学活動を行った。
 門下には知識人のほか製塩労働者出身の王艮(おうごん)なども参加し、幅広い信奉者が得られた。王艮のもとには多くの庶民も参集し、主体的実践を重んずる泰州(たいしゅう)学派が形成された。陽明の生前死後の約50年間は、偽学とされて陽明学派の活動に制約が加えられたが、門下は教説の宣伝に努め、やがて陽明学は公認されて、明代末期の思想界に大きな影響を及ぼした。
 後継者の間にはさまざまな思想傾向が生まれ、心を至善無悪とみなし、修養を重んずる一派は陽明学正統派、右派などとよばれるが、そのなかには朱子学の修養法に接近する者も現れた。心を無善無悪とみなし、束縛を脱した絶対自由な人間の生き方を求めた王畿(おうき)や、主体的実践を重んじた王艮などは陽明学左派とよばれ、そのなかには人間の存在性の認識のために、仏教や老荘思想を摂取して儒仏道の三教(さんぎょう)一致の立場をとる者、社会的実践を重んじて共同生活組織をつくる者、大胆な社会批判を行う者などが現れた。この傾向の到達点に李贄(りし)が現れ、日常感覚に立脚して旧来の価値体系の形而上(けいじじょう)学性、虚構性を徹底して批判した。この結果、経済生活の向上を背景にして、明代末期には主体意識が高揚し、自由主義的、批判主義的傾向が強まる一方で、官憲による弾圧、伝統的立場をとる者からの批判が加えられ、社会的な問題となった。
 清(しん)代に至ると、ふたたび朱子学を正統とする思想統制が加えられ、また陽明学の非実用性が指摘されて、その勢力は急速に衰え、実証を尊ぶ客観主義的学風が生まれたが、人間の主体性の尊重、既成の価値に対する批判意識などの陽明学の成果は、思想的遺産として継承されていった。
 中国で陽明学がしだいに普及するようになったころ、朝鮮半島にも伝えられ、17世紀の鄭齊斗(ていせいと)(号は霞谷(かこく))などの信奉者が現れたが、そのころは程朱学が盛んであって、陽明学はあまり振るわなかった。[佐野公治]

[日本における陽明学派目次を見る]
日本に陽明学が本格的に紹介されたのは江戸初期であるが、中国の朱陸(朱子(しゅし)と陸象山(りくしょうざん))論争のあおりを受けて、陳清瀾(ちんせいらん)(陳建(けん))の『学蔀通辨(がくほうつうべん)』など陽明学排斥の書の影響が大きく、「陽明学は誤れる思想体系である」という理解が先行した。その典型は林羅山(はやしらざん)である。陽明学は不幸な出発を強いられたのである。しかし、中国大陸との文物交流が飛躍的に増大したこの時期に輸入された陽明学関係書を介して信奉者が生まれる。中江藤樹(とうじゅ)がその先駆者である。藤樹は明(みん)代の末流朱子学に反発して陽明学に転向し、数多くの門人を養成した。熊沢蕃山(ばんざん)、淵岡山(ふちこうざん)などが著名である。17世紀中葉は、藤樹一門の活躍をはじめ、王陽明の主著『伝習録(でんしゅうろく)』『伝習則言』『王陽明先生文録鈔(しょう)』が相次いで和刻されて、陽明学ブームを将来した。これに反発したのが羅山の『陽明攅眉(さんび)』である。
 藤樹同様に末流朱子学に反発して山崎闇斎(あんさい)、山鹿素行(やまがそこう)、伊藤仁斎が登場する。闇斎は『大家商量集』を著して原朱子学を基に陸象山・王陽明を批判し、素行、仁斎は程朱陸王の外に古学をおこした。非陽明学が優勢であった思想界のなかで、崎門(きもん)三傑の一人佐藤直方(なおかた)に朱子学を学んだ三輪執斎(みわしっさい)が陽明学に転向し、『標註(ひょうちゅう)伝習録』を1712年(正徳2)に著して大反響をよび、陽明学関係書を次々に刊行して陽明学を中興した。その門下に川田雄琴(かわだおこと)(琴卿(きんけい))が出た。陽明学の隆盛する兆しがみえるや、身内から転向者を出した崎門一派は陽明学に対する総攻撃を敢行した。その所産が豊田信貞(とよたのぶさだ)が編集した『王学弁集』である。18世紀初期に三輪執斎が活躍し、古文辞(こぶんじ)学を提唱した荻生徂徠(おぎゅうそらい)が登場し、程朱学派・陽明学(陸王学)派・古学派・古文辞学派の四大学派が勢ぞろいしたが、ひとり陽明学派が不振であった。
 日本で陽明学が隆盛を誇ったのは幕末維新期である。その先駆者は佐藤一斎で、林家の塾頭として朱子学を講じたが、個人的信念としては陽明学の信奉者であった。幕末期の学術思想界の大御所であった一斎の門には全国から俊秀が馳(は)せ参じ、その影響力は破格のものがあった。公朱私王の一斎と異なり、大塩平八郎は明末清(しん)初の陸隴其(りくろうき)に代表される陽明学排斥論に鋭く反発して『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』を著した。この時期の著名な陽明学者は吉村秋陽、林良斎、山田方谷(ほうこく)、春日潜庵(かすがせんあん)、池田草庵、東沢瀉(ひがしたくしゃ)などである。陽明学運動が組織的に行われたのが明治期の陽明学の特色で、東正堂、吉本譲などが中心的役割を果たし、この期の活動が契機となって逆に中国の陽明学運動を刺激した。[吉田公平]

『大西晴隆著『王陽明』(1979・講談社)』▽『山下龍二著『王陽明』(1984・集英社)』▽『島田虔次著『朱子学と陽明学』(1967・岩波書店)』▽『岡田武彦編著『陽明学の世界』(1986・明徳出版社)』▽『木村光徳著『日本陽明学派の研究――藤樹学派の思想とその資料』(1986・明徳出版社)』

→平重盛
忠ならんと欲すれば孝ならず、
孝ならんと欲すれば忠ならず。


【道教】
陰陽五行説→易学
神仙思想
[太平道]張角
[五斗米道]張陵
+織緯思想(しきい)→[道教]寇謙之

(老子・荘子[老荘思想])
風水
人間が無理をしないで組織に頼らず自由に生きる思想
道(タオ)
中国哲学上の用語の一つ。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家や儒家によって説かれた。

【老子】BC571→BC470
老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。

[書物]
史記 司馬遷
老子道徳経(約5,000文字)

勉強すると徳するが、タオ(道)は損する
脱力→無為自然
自ずから然り(他から何の影響も受けることがない状態)

上善如水
水のように生きれば、できないことがなくなる
(ブルース・リー→Be Wathe(水になれ))

大道廃れて仁義あり→孔子批判
大道→人が行うべき正しい道
仁・義→相手を思いやる心
(大道が廃れたことで、あとから不自然な仁や義などの道徳的な規範が必要となった)

和光同塵(知恵才能自慢はろくなことない)
小国寡民(国土が小さく国民が少ない状態のこと→現在の自分に満足していれば争いは生まれない)
→都会は欲望を達成しながら、人間の心の墓となる
無用の用→(能ある鷹は爪を隠す)

孫子の兵法「囲師必闕(いしひっけつ)」
相手を全滅させるのではなく、敵将を降参、逃亡させ、味方の戦力の消耗を抑えて戦いを終え、次に備える。

三宝
他人を慈しむ心
欲を抑えた倹しい暮らし
自分が自分がと前に出ない

学を断てば憂いなし
知識が増えれば増えるほど、悩みの種も増えていくということ。
「老子―二〇」の冒頭のことばから。「学を絶てば憂い無し(学問するのをやめてしまえば、心配ごとはなくなる)」とは、細々とした知識を身に付けるよりも、この世界の本質を理解することの方が大切だと考える、「老子」の重要な主張の表れです

人間が勝手に作った世俗に囚われず、
運命に沿って生きることこそが最上である
自分は本当は何がしたいのか?
自分の本能や直感は何を求めているのか?

【荘子】BC369→BC286
[書物]
「荘子」全33編(65,000文字以上)
自由人・架空の人?

万物斉同→タオ
(ばんぶつせいどう、中国語: 萬物齊同)とは、荘子が唱えた、万物は道の観点からみれば等価であるという思想である。
荘子は物事の真実たる「道」に至ることが、徳だと考えた。人はとかく是非善悪といった分別知をはたらかせるが、その判断の正当性は結局は不明であり、また、一方が消滅すればもう一方も存立しない。つまり是非善悪は存立の根拠がひとしくて同質的であり、それを一体とする絶対なるものが道である。
このようにみれば、貴賤(きせん)などの現実の社会にある礼法秩序も、すべて人の分別知の所産による区別的なものとわかる。それどころか、生死ですら同一であり、生も死も道の姿の一面にすぎないと言うのである。

胡蝶の夢
→夢で蝶になった夢をみた。
今の自分は蝶の夢かもしれない。
尾を泥中に曳く

朝三暮四
井の中の蛙

真人→タオと一体になった人
心斎座忘→心を空にして全てを忘れ去る
明鏡止水→全く波(区別)がない水の状態
(人間が作った区別からの解放)
→真人となる

逍遥遊篇
(内的な精神世界において遊ぶように生きる)
「雲気に乗り、飛竜に御して、四海の外に遊ぶ」

12世紀頃 朱熹によって儒教が再解釈され、
道教を吸収することで朱子学が生まれる
→江戸幕府に影響を与える

[書籍]
守屋 洋

九字護身法(くじごしんぼう)
主に修験道において「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって除災戦勝等を祈る作法である。この行為は九字を切る(くじをきる)、九字切り(くじきり/くじぎり)とも表現される。仏教(密教)で正当に伝えられる作法ではなく、道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道に混入し、その他の様々なものが混在した日本独自の作法である。


【易学】
https://tankyuu.net/eki/
白倉信司「易経&古事記」解説チャンネル

占い?
→占わなくても分かるのが易の真髄
前兆を読む力(兆しを視る目を磨く)

易経(変化の書)

太極
陰と陽

八卦×八卦
六十四卦

上下すべて陽→乾為天(けんいてん)
原点・始まり
発展

上下すべて隠→ 坤為地(こんいち)
包容力・勤勉・努力

水雷屯
山水蒙
沢山咸→自分の直感に従え

哲学者
ゴットフリート・ライプニッツ
二進法を確立

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