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ボタニカル・クロッシング: 「植物のメタファー」を用いたフォーカシングの提案


はじめに:身体知と「植物知性」


身体知は、植物に似ている。

周囲の環境を、その身を通じて直接的に応答している。根を伸ばし、葉を広げ、その状況に呼応して生きている。
そんな植物の生長や動き、微細な変化に気づく兆しは、毎日じっくり観察していてもなかなか気づけないことも多い。
植物たちは、動物と違う「時間」を生きている。ゆっくりと時をかけて、その状況下での最適な関係性を、「その場でどのように生きたらいいか」の最適解を非常に精密なしかたで示している。
それは場合によってはとてもか弱く見えて、しかし驚くほどにたくましいこともある。

これまでの自分の人生のいくつかの季節で、無性に植物に凝ってしまう時期があった。ここ一年ほどは、僕にとって空前のボタニカル・ブームが到来している。もちろん、NHKの朝の連続ドラマ『らんまん』にもダダはまり。ベランダの花々や夏野菜、観葉植物に語りかける時は土佐弁である(影響されまくり)。

水枯れをさせたり、虫がついちゃったり、鼻がつかなかったり思ったほどの収量がなかったりと、いとうせいこうさんのいう"ガーデナー"ならぬ"ベランダー"をやってみて、勉強になることばかりである。予想外のことや悩みも多分にあるけれど、植物と一緒に暮らす生活には癒しがあるし、単なる息抜きを超えて、本職の研究や臨床実践にも通じる、さまざまなアイデアを連れてきてくれる。

以前にも関連のnote記事に書いたけれど、フォーカシングを含む「身体知」のあり方は、植物の振る舞いをよく観察すると重なる部分が多い。実際、「植物知性」に関する書籍もたくさん出てきたし(賛否はあるが)、植物の哲学なるジャンルも最近出版が相次いでいる。

特に決定的だったのは、藤原辰史先生の『植物考』だった。歴史学、農業史をご専門とする藤原先生の視点はとてもユニークで、帯の「人間の内なる植物性に向けて」という文言はここ最近の僕自身の"公案"でもある。"We have plant body"と言ったのはまさしくジェンドリンだが、フォーカシング実践あるいはジェンドリン哲学のなかに、どのようにこの内なる「植物性」と響くものがあるのかを探究し始めている。


最近はますます植物に目が離せなくなり、故に、自宅だけでなく今や研究室にも植物が増幅しつつある。いや、これは趣味というより実は研究の一環なので...と言い訳はいつも考えている。おかげさまでクレームはまだない。枯らすわけにはいかない。

そんななかで、ふと思ったのだった。身体知と植物の知のあり方が似ているのなら、植物でフォーカシングができるのではないか。

こうして新たなフォーカシングのワーク「ボタニカル・クロッシング」が爆誕したのであった。

フォーカシングとメタファー:交差の機能


「植物のメタファー」を用いてフォーカシングをする。これがボタニカル・クロッシング(botanical crossing)のシンプルな特徴である。

その前に少し、フォーカシングとメタファーの関係について書いておきたい。

フォーカシングのプロセスでは、微細で曖昧だけど有意味な感覚である「フェルトセンス」にアクセスをするために、メタファー表現を用いることが多い。曖昧な身体の感覚や、そのような感覚を触発する状況を、”何かにたとえる”のである。
たとえば、ある人にとっての悩みの種になっている人間関係があるとする(種..すでにボタニカルである)。そのような問題のある関係や場を連想すると、何か胸に重たい感じがするかもしれない。その質感や、状況からの連想を喩え、メタファーにするのである。「そのことを思うと、からだではどんな感じがしますか?その感じや感じを伴う状況を、何かにたとえるとしたら、どんな感じがするでしょう?」というように聴き手側が問いかけてみることもある。
するとフォーカシングをしているフォーカサーは、「胸にずーんと、鉛のような重さがある…いや鉛よりも、もっと”ねっちょり”している感じ」というように表現したりする。”鉛”のようなメタファーや、擬音語や擬態語などのオノマトペも、フェルトセンスを言い表すのによく使う表現だ。
あるいは「その人間関係を想像すると、職場のことなんだけど…飴細工でできた大型船に乗っているみたいな感じがする…」というような状況のメタファーがイメージされる場合もある。このようなメタファーやイメージによって、フェルトセンスにアクセスさせ、メタファーとフェルトセンスが交差することで、身体が微細かつ精密に理解している状況についての「何か」が際立ってくることがある。
その状況は、重たくって、ねっちょりしていて、そして飴細工でできている大型船のようなものだ。そんな船に乗っているとしたら、そしてそこが職場だとしたらベタベタとして身動きがとれなくって、そしてうかうかしていたら全部海に溶け出して船の外に放り出されてしまうかもしれなくって、確かに落ち着いてはいられないだろう。船員たちもぎすぎすしそうである。
では、そのような状況は、あるいはそのフェルトセンスは、何を意味しているのだろう?あるいはどんなことがその状況にあるといいのだろう?
べたべたとした甲板を船員たちが歩くのに、もう少し”さらっとした関係性”みたいなものがあるといいような気がする。そのようなコミュニケーションを”さらっと”させるような何かとは?まずはみんなの足元の”べとべと”を拭き取るような時間や機会が必要なのかもしれない。そしてそのように足元の甲板に注目して、よく拭いて味見をしてみると、意外と甘くて旨みがあるかも…。なるほど、この船という状況を生かすためには、まだまだ工夫できることあるかもしれない。

このようなかたちで、身体感覚と言葉やイメージ、メタファーを「交差(crossing)」させて、身体感覚の意味を精密に理解しようと試みる一連の流れが、フォーカシングの特徴だと言える。メタファーは、身体感覚とつながり、その理解にドライブをかけるのにうってつけの重要な要素なのだ。

ちなみに、上記のメタファーの機能についての内容は以前にもこちらの書籍に書かせていただいた。ご関心を持っていただけた方はぜひご一読いただけますとありがたい。


どのようなメタファーを用いるか: 喩える系ワーク


そんなこんなで、すっかり植物にハマっている僕は、今こそ「植物のメタファー」でもってフォーカシングをやってみたいと思ったのだった。
フォーカシングにとってメタファーがどのような機能をはたしているかについては、上記の本を書いたり博士のときからの長年の関心ごとで、メタファーとフェルトセンスをなぞかけのように交差させる「なぞかけフォーカシング」というものを考案したりもした。
しかし、フォーカシングとメタファー、特にどのようなメタファーを用いるかについては、実はさまざまなワークがこれまでにもたくさん開発されてきた。

自分の状況や内側の感じを「天気・天候・気象」などのイメージに喩える「こころの天気」(土江, 2008)、状況を生きる自分を魚に喩える「サカナになるフォーカシング」(星加, 2015)、自身の状況と生き様を「○○している(動物)」という動物に喩える「アニクロ(animal crossing)」(池見ら, 2019)、あるいは植物に含まれるが「最近の私ってキュウリやねん」という「野菜フォーカシング」の実践報告もある(青木, 2020)

このように、フェルトセンスやその状況、自分自身を喩える系のフォーカシング・ワークには、たくさんのヴァージョンが存在する。その1つとして今回は、フェルトセンスと植物による交差、ボタニカル・クロッシングをぜひ試作してみたいのだった。

実は、喩えに用いるもの、メタファーとして何を用いるのかは、喩えられる対象、この場合はフェルトセンスの理解に多分に関与する。いわば、それぞれのメタファーには、それぞれのメリット、巧みさ、特徴があると言える。
「天気」のメタファーでフェルトセンスを喩えるメリットは、まずは天気には良し悪しはなく、誰のせいでもないことにある。天気を変えようがないし、自分の感覚も変えようがない。そして天気は必ず変化する。これは自分の”気分”も同じである。止まない雨はないし、明けない夜はない。梅雨の時期でも晴れ間がでたりする。そして天気であれば、ある程度対応策が考えられる(雷雨になりそうだから遠出は控えよう、など)。
「動物」のメタファーにも、動物ならではのメリットがあるだろう。動物にはたくさんの種類があり、多種多様な生き方があり、それぞれの状況下で工夫をしたり、能動的に対応したりしている。ある状況のなかの生き様を表現するのに、動物というモチーフはぴったりである。そして案外、人はいろんな種類の動物を知っているものである(遠足の定番ということもあり、動物園に行ったことのない人は極めて稀である)。動物の喩えがあまりピンとこないという人でも、たとえば「今の気分はイヌ?ネコ?」と聴くと、どちらかかあるいは「どちらでもない」という答えが出る。ちなみに学生に今の自分の喩えを聴くと「ずっとダラダラ寝ているナマケモノ」という答えが大半である。

では「植物」を喩えに使うとなると、どうなるだろうか。実は案外、植物をフェルトセンスのメタファーに使うのか、難しいかコツがいるように思っている。
まず、植物は(一見すると)ほとんど動かず、変化しない。それが、本来的に「変化の兆し」を含意しているフェルトセンスを表現する際に、あまり適していないようにも思える。天気であれば「これからどうなっていきそうか」を想像することもできたり、動物のように「その状況でその動物はどうしがたっているか」のような問いかけがあり得るわけだが、多くの人は「その植物はどうしたがっているのか」なんてわからない。だいたい水をあげときゃいいかな、とか肥料をあげようか、とか太陽を当ててあげよう、となって枯れちゃうことがある。植物の声を聞くにはかなりのコツがいて、僕も日々一喜一憂しながら修練している。

知らない対象で、メタファーは作れないのである。多くの人は野球やサッカーを知っているから、人生を野球・サッカーに喩えられる(1発逆戦とか、ロスタイムまで諦めるな、とか)。しかし同じ球技でも「セパ・タクロー」を知らない多くの日本人は、人生をセパ・タクローでは喩えないのである。もちろん、東南アジア諸国では、人生をセパ・タクローに喩えるかもしれないし、インドではクリケットに喩えることことが多いかもしれない。

意外と私たちは、植物のことを知らない。植物は水が好きだから、とつい水を挙げてしまい枯れてしまう。日本人にとって馴染み深いイネのイメージがあるからだろうか、根の部分がずっと湿っていた方がいいと思ってしまう。でも人間でもずっと足元が濡れていれば不快で健康を害してしまうように、植物もずっと濡れているとダメなのである。
そして今、植物の「根」と人間の「足」を対応させたアナロジーで考えたが、これも注意が必要である。植物の根は、人間でいえば腸など内臓に近い。養分や酸素を吸収する器官である(かつ、植物体を支える足でもある)。土がずっと濡れていると、根は呼吸をできず窒息してしまう。そしてどうもイネは、根が水に浸かり続けても呼吸ができる独特の構造を持っているようだ。

私たちは一般的に、植物のことをぜんぜんわかっていないのかもしれない。植物はよっぽど「他者」だと、世話をしながらいつも思う。

一方で、植物と関わり、その叡智を知っている人、植物たちにずっと関心を向ってきた人ならではのその視点が、「植物」のメタファーをより巧みに交差させることに依拠するのである。

ボタニカル・クロッシング:植物好きのためのワーク


そう、植物のメタファーでフォーカシングを行う「ボタニカル・クロッシング」は、植物の喩えを用いる以上、ある程度は植物に馴染みのある人こそが楽しめるワークなのだ。園芸愛好家・植物好きのためのフォーカシング・ワーク。それが「ボタニカル・クロッシング」の大きな特徴である。

たとえば、春の時期の花に限ったとしても、「この状況の中の私の感じは、マリーゴールドというよりもペチュニアみたいな感じ」と喩えられるのは、園芸愛好家ならではだし、もし植物のことにあまり関心のない聴き手もそれが何を意味するのか連想するのは難しいかもしれない。
(※注意したいのは、これはあらゆるリスニングの場面において言えることで、だからこそ聴き手はそれが何を意味するのか、話し手に尋ねることが必要なのである。花の種類も特徴もわからなくても、聴き手は務まる。むしろ聴き手とは、わからないから聴く人のことである)
しかし、植物の喩えを用いるフォーカサー自体は、植物に精通していればしているほど、その植物に関する知恵を状況の理解やフェルトセンスの表現に利用することができるのである。
メタファーなどの言語学の分野では、喩えられる側の領域をターゲット・ドメイン(この場合や状況やフェルトセンス)、喩える側の領域をソース・ドメイン(この場合はハンドル表現に用いるメタファー、天気や動物、そして植物に関する知識や知恵)と呼ぶ。
園芸愛好家は、日々植物と暮らし、植物のケアをしていることで、植物に対する豊富なソース・ドメインを活用することが可能となる。たとえばマリーゴールドのオレンジの華やかさだけでなく、その強さやたくましさも知っている。そしてペチュニアの樹勢の強さやばっと花をつけたときの存在感だけでなく、たくさんの花をつけるがゆえに加湿に弱く花殻を詰む手がかかることも知っている。そのような植物との生活のなかで培われた、実感を伴った知恵が「ソース(資源)」となって、フェルトセンスと交差するのである。

さまざまな園芸用語やちょっとしたtipsも、今の自分自身の状況と交差することで、状況の理解を促進させる働きをもつかもしれない。
たとえば、植物は水を切らしてもダメになるが(水枯れ)、水を与えすぎてもダメになる(根腐れ)。今のこの生きづらさを感じる状況は、植物に喩えるならば、水枯れ的だろうか、それとも根腐れ的だろうか。何かが足りなさすぎるのだろうか、あるいは何かが多すぎるのだろうか。そしてこの「水」にあたるものは何なのだろう。あるいは植物の育成上欠かせない要素は他にもたくさんある。日光、風通し、肥料、あるいは虫の存在…。あるいはガーデニングに欠かせない行為。葉っぱの剪定、古くなった枝の切り戻し、根鉢になったときの植え替えなどなど….。さまざまな園芸用語も、フォーカシング実践のなかでフェルトセンスと交差させることで、状況の意味を明らかにするための「ソース(資源)」となるのである
虫と一言で言っても、害虫もあれば益虫もいる。何かに「蝕まれている感じ」があれば、園芸家にはいくつかの対応手段が思いつく。それでも、すぐに農薬を巻いたりすることが良い手であるかは、まさしくその状況の中で判断させることになる。すぐに対処したほうがいい場合もあれば、その虫がいる全体の視点から考えなければならないことがあったりもする。そう言えばこの冬、うちのモンステラにもハダニが出てしまったが、それは別にハダニが悪いわけでなく、僕が「葉水」やら諸々ケアを怠ったからだった。植物との間の「潤いのようなもの」が、自分の生きるこの状況に必要だったことを、あるいは葉水を植物に与えるような「余裕」が必要だったことを、ハダニとモンステラが教えてくれたのだった。

植物は、状況をその身に微細に反映させる。水が枯れると葉のありようを変えたり”しょんぼり”したりするし、肥料が多かったり少なかったりすると、それぞれ特有に葉の色を変えたり、落としたりする。そう、植物は自分で歯を落としたり、枯れたり、部分的にその身体を”死滅”させたりする。植物のもつ環境との独特の適応の仕方は、動物的なそれとは事情が異なる。そのような植物的な叡智をソースに、状況知にアクセスするとはどのような体験なのか、僕は非常に興味を持っている。

植物の種類は山ほどあり、僕自身もまだまだペーペーの園芸ビギナー(いとうせいこうふうに言えばベランダー)である。ベテランの園芸家の実践知のなかに、さまざまな可能性があるような眠っているような気がしている。

今後の予定とちょっと宣伝: 出店・ワークショップ開催予定


というわけで、植物のメタファーを活用したフォーカシング・ワーク「ボタニカル・クロッシング」を試作・鋭意開発中です。

具体的な実践の手順、実施上の工夫など、随時更新、部分的にご紹介していきたいと思います。

また今後、ボタニカル・クロッシングを中心に、交差を用いたフォーカシング実践を実験的に学んでいくワークショップの場を企画予定です。

実は細々と、focusing living laboというフォーカシング学習のための生活実験プラットフォームを始めました。
フォーカシングを生活に生かす、フォーカシングを文化にすることを目指したフォーカシングの新しい学び方の生活実験プロジェクトとして立ち上げました。
ゆるゆると試験的に始めており、この夏頃からまずはオンラインでのワークショップを開催予定です。
詳細はfocusing living laboウェブサイトツイッター、そしてこのnote投稿にてお知らせいたします。

また、2023年8月19日・20日に福岡で開催される日本フォーカシング協会年次大会でも、ボタニカル・クロッシングの体験ワーク会を申し込む予定です。こちらも決定しましたら、お知らせしたいと思います。詳細は日本フォーカシングky方会のウェブサイトをご覧ください。

「植物」という存在と交差することで、フォーカシングは、身体知はもっと面白くなる予感がしています。草花を育てるように、ゆっくりと探究していきたいと思います。植物好きも、ベテラン園芸愛好家の方も、なんかちょっと面白そうだと思っていただいた方も、どなたでも関係です。植物という身近だけどとても不思議な存在と交差しながらフォーカシングをするこの実験プロジェクトに関心を持っていただけますと嬉しいです。

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