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「悲観主義は生命への冒涜である」 :”身体は知っている”への追記
ジェンドリンは臨床実践に関する主著の『フォーカシング指向心理療法』の中で、以下のようなことを記述している。
人間のプロセスはつねに健康に向かって進んでいくということを、形而上学的な前提とする必要はない。私たちはいい加減な楽天主義がほしいわけではない。多くの苦しみと破壊があふれているこの世界で、楽天主義は苦しむ人たちへの侮辱である。しかし、悲観主義は生命への侮辱である。生命には常に前進する方向性がある。それ以外のどんなことが起こっていようと、生命の成長は揺るぎない真実である。
フェルトセンス、体験過程、身体…、これら私たちの「生命」は、生きようとする「方向性」をもっている。個人にとって何が「善」とされ、何を「悪」とするかは、個人の外側に存在するルールや規範によって決定されるとは、ジェンドリンは考えない。そのような社会的な規範自体も、生命プロセスよって作り出されたものであり、その規範に先立って、生命はまさにその機能を発揮し、生きようとする「方向性」を常に示していると捉える。
この発想はジェンドリン哲学の中心的な生命観である。あらゆる”〜主義”、外側から到来する抗いがたいもの、パターナリズムへの徹底した警戒心は、彼が幼少期にウィーンからの亡命を体験したことに由来するように思えてならない。イデオロギーは、外側から一方的に、暴力的に与えられるものではない。そういったイデオロギーに生命が影響を受けることはあっても、生命がその緻密な相互作用の中で、自ら指し示して、新たに創発されていくことで、生命は"冴えて"いく。
フォーカシングという「身体知」への”偏重”は、ジェンドリンがこの生命の営みの謎にいかに迫れるのかを探求した当然の帰結でもある。「身体は知っている」ことの重視は、身体の「性善説」、楽観主義によるものでもない。生きる(living)という環境との相互作用プロセスが、どうしても出発点とならざるを得ないからである。『フォーカシング指向心理療法』の後半でも、ジェンドリンは以下のように記述する。
身体には単に胃があるばかりでなく、複雑な消化過程も備わっている。からだは、そのような過程を潜在的に知っている。そしてその過程は相互作用なのである。胃は食べ物を消化する。ーーしかしそれは、もし、食べ物があればのことである。からだには、ものや人とどのように相互作用をするかという情報も含まれている。呼吸についての情報が含まれている(imply)ということは、空気も含まれている。歩くことについての情報が含まれているということは、大地が足をどのように押し返すかもからだは知っているのである。
吐く息が、次の吸う息を知っているように、歩行時にバランスを崩さず、足が次の一歩を踏み出せるように、身体は次なるものを知っている=含んでいる(implying)。「身体が知っている」あるいは「身体の声を聴く」ということは、決してすべての判断を”身体まかせ"にするというような素朴な「楽観主義」ではない。あるいは、すべてを"抗いきれない身体的な欲求、欲望"と捉えるような決定論的な「悲観主義」でもない。身体がそのときにまさに求めている、指し示している、次なるものの方向方向へ向かっていくという事実から、生命を、人間を考える。この際どくも複雑な身体の知を重視するのがジェンドリンの、そしてフォーカシングの一番の独自性である。
体験過程理論自体には発達理論は存在しないが、ジェンドリンはよく「子どもの身体」の例を出す。めくるめく発達過程の渦中にある、乳児の身体は、身体知が爆発的にその豊かさを発揮している。
生命体としての乳児は、生命プロセスのほんの少し先のことを知って(感じて、存在して、暗示して…)いる。つまり、母親や父親とともにいるときのふるまい方、扱われ方を知っているのである。そして両親が自分が生きる過程をどのように支え育んでいるかも暗に知っている。乳児は、空気を肺に吸い込むやり方を「知っている」し、それと同様に、自分がどのように抱かれ、授乳され、歓迎され、守られるかを知っているのである。
子どもは、たとえ誰もそれらを教えなくても、自ずから息をし、泣き、ミルクを飲み、ぐずり、眠り、人を呼び、目を合わせ、微笑む。人間はそのような身体知を有して生まれてくる。それぞれの生命は、自らのプロセスを満たすような方向性をもっているのである。
そして重要なのは、たとえ生きている中でこのような生命プロセスのある部分が妨げられても、あるいは初めから何らかの障害を含み込んで生まれてきたとしても、生命は、その全体性の発露として、それでも自らを満たす方向性を示す、ということである。生命は生きている限り、次なる方向性を探すことをやめない。何が足りないか、何を必要としているか、どのように変わることができるか、その可能性を探索し続ける。フェルトセンスは、悩みがまさに解決への向かうためのその方向性を探している生命の営みの現れである。
フォーカシング実践は、このような身体の方向性に貫かれた、"生命主義"の思想に支えられている。身体は、自らが何を求めているのか、その方向性を知っている。ジェンドリンはいつもいつでも、そこから出発するのである。
文献
ジェンドリン, E. T.(著)村瀬孝雄・池見陽・日笠摩子(監訳) (1999). 『フォーカシング指向心理療法(上/下)』金剛出版.
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