【小説】はじめての願いごと 〜さばえ近松文学賞 恋話(KOIBANA)RETURNS2 落選作〜
明治の終わり頃の話である。小学校を卒業したきよは鯖江の織物工場で働き始めた。鯖江の特産品である石田縞は人気が高まる一方で、織物工場は多くの働き手を必要としていた。
きよは石田縞も工場で働くことも好きだった。自分が働いている工場の製品でなくても、これはと思う石田縞は熱心に研究した。工場に出向いて端切れを分けてもらうこともあった。
それだけに、きよは自分の不器用な手が恨めしかった。何をやらせても他の織工より時間がかかった。四年目になるのに、後から入ってきた織工にさえ抜かれ始めていた。
――針の穴に糸を通せず、服を丁寧に畳めず、こよりを作ると古い枝のようになるこの手では、この仕事は向いていないのかな。
少し、自暴自棄になっていた。
仕事休みのある日、織物の上達祈願のため、きよは中野神社にお参りすることにした。
参拝から帰ろうとすると、きよと同じくらいの年恰好の少年が、木の下であぐらをかき、左手に持った紙を睨みつけながら唸ったり首を傾げたりしているのが見えた。
きよの気配に気づいた少年が顔を上げた。きれいな二つの目がきよの目と合った。
きよはそのきれいな目に近づいていった。怖かったが、大きな力で引き寄せられているかのような不思議な感じもした。
「何をしているの?」
「数学の問題を解いているんだ。ぼくは、清。君の名前は?」
「きよ。どうして、ここで?」
「ここが、一番落ち着くんだ」
清はおもむろに身の上話を始めた。幼い頃に両親を失くし、鯖江に住む遠い親戚に引き取られた。親戚は実の子のように優しく接してくれるが、ときどきその優しさが重たく感じられて家から出てしまう……
きよも自分のことを話した。それが礼儀のような気がしたからだが、利害関係のない第三者に悩みを聞いてほしいからでもあった。
「石田縞を織るのが好きなら、上手になるよ。好きこそ物の上手なれ、と言うじゃない」
「逆なんじゃない? 上手なひとはできるからやり続ける。それで、ますます好きになっていく」
「それもあるかもしれないけれど、好きなひとは上手になるまで止めないからだと思うよ。ぼくだって、数学を諦めたくない、好きなことを諦めるなんて、自分自身を見くびっている気がするし。そうそう、ここで問題を解いている理由がもう一つある。中野神社に奉納された算額の問題なんだ」
「算額?」
「数学の問題が書かれた大きな絵馬のことで、今から五十年くらい前に神社に奉納された」
「そんな絵馬、見たことないけれど」
「拝殿に掲げられていて、神事のあるときなど特別な日にしか見られない。実は、親戚と神社の氏子さんが知り合いでね。つてを利用して、特別に見せてもらった」
「どんな問題?」
「元の写しは持っていないけれど、問題の要点を抜書きしたのが、この紙」 清は、きよに抜書きを見せた。
甲の立方根+乙の立方根+丙の立方根=12
乙=甲+ 98
丙=乙- 61
答 甲27 乙125 丙64
「何だ。答え、出ているんじゃない」
「解き方を知りたいんだよ。算額を奉納したひとがどうやって解いたのか」
「当てずっぽうじゃないの?」
「そこなんだ。当てずっぽうでも解けてしまうから、この問題は」
「それで解ければいいじゃない」
「それはまあ、そうなんだけれどね。どうも、当てずっぽうで解いていないっぽい」
「当てずっぽうでも、大本の道筋が正しければ、別に構わないと思うけれど」
「言われてみればそんな気もしてきた。自分、頭が悪いのかな。悪いというか固いというか」
「冗談。清さん、すごいよ。がんばって」
「ありがとう」
きよは清と別れた。久しぶりにたくさん笑った。
だが、この日以来、清を見かけなくなった。
最近急に信心深くなったと工場で噂が立つほど、きよは足しげく中野神社に通うようになった。
清の姿はなかった。
神社からの帰り道、きよは道に落ちている小石を見つけ次第蹴った。出てこいよ、と呟きながら。
清を見なくなってから一年近くが経った。
ある雨の降る日、きよは主任に厳しく叱られていた。織り込む糸の色と本数の両方を間違えてしまったのだった。
「いったい、何年働いているの」
自分の出来なさ加減が情けなくなったきよは、主任の制止を振り払って町に飛び出した。
――無理だ。やっぱり、自分には向いていないんだ。いったい、どうして、どうして……わたしはこれからどうすればいいの……
雨に濡れながら、行くあてもなく走った。走って走って、心臓が破裂すればいいと思った。
――あっ。
きよは、立ち止まった。
目の前に、傘をさした清が立っていた。
「清さん、どうして、こんなところに?」
「頼まれた届け物を済ませて帰るところ。君こそ、どうしたの? 仕事中じゃ」
「わたし、止める。織るのを止める」
清は、傘を持っていない手をきよの肩を置き、厳しい顔をしてきよの目を見て言った。
「神様を、裏切るのか」
きよは、はっとした。
「君は中野神社で何度もお祈りしたんじゃないのか。機織の上達祈願をしたんじゃないのか。神様に頼んでおきながら諦めるなんて、神様を虚仮にしているのか」
「神様なんて、いないんだよ」
「いる。絶対に。きよを守ってくれている。成長させてくれる。仕事を続けるんだ。仕事、好きなんだろう? 石田縞を織るのが好きなんだろう? さあ、工場に戻ろう。一緒についていってあげるから」
清はきよを自分の傘の下に入れ、工場に連れていった。
「わたしのことを嫌いになったと思っていた」
「違う、違う。実は今、鯖江にいないんだ。君と会ってからすぐ後、あるお金持ちの家の養子になってね。おかげで中学に行かせてもらえるようにもなったけれど、鯖江からすっかり離れてしまった。今日はたまたま、今までお世話になっていた親戚への届け物を急に頼まれて、特別に学校を休んで鯖江に来だ」
――それで、姿を見せなくなったのか。
「あの算額の問題、解き方は分かったの?」
「中学校の先生が当時の解き方を教えてくれたんだけれど、まったく分からなかった。しょげていたら『この解き方が分かるようになるために君はここで勉強するんだろう』って。そうそう、先生は『足して12になる整数の組み合わせを先に考えて、残りの二つの式に当てはめて確かめていく方が早く解ける』とも言っていた。当てずっぽうでいいらしいよ」
「手紙を出したい、住所を教えて」
「申し訳ない、事情があって、今は教えられないんだ。実の親子でもないし――さあ、工場に着いた。頑張ってね」
別れ際に清はきよの手を握った。大きくてあたたかい手に、きよは自分の心臓が高鳴るのを感じた。
――さっき、きよ、って呼んでくれた。
清と別れてから、きよの石田縞を織る技術は目に見えて上達した。周囲の見る目が変わってきたのを感じた。
――清が、わたしを上手にしてくれたんだ。
ある日、主任がきよに声をかけた。
「毎年、七夕用のササを持ってきてくれるご隠居さんにお渡しする反物作りの件。今年はきよさんに任せます。デザインは自由。でも、検査は厳しいよ」
それは、優秀な織工であることを認められた証だった。
きよは主任に深々と頭を下げた。涙が出た。
七月の初め、石田縞の織物工場の近くに住むご隠居が、七夕飾りのササを工場に持ってきた。
「毎年立派なササをいただきありがとうございます。ささやかですが、どうぞお納めください」
工場主は、きよが織った試作品をご隠居に手渡した。
「これはまた、質朴でありながら気品のある、素晴らしい石田縞ですね。見事」
ご隠居は織物の出来をひとしきり愛でた後、工場主に礼を言って満足げに帰っていった。
去年まで、七夕用の短冊に「石田縞を上手に織れるようになりますように」と書いていたきよは、今年、はじめての願いごとを書いた。
「神様に、会いたい」
きよは短冊を胸に圧し当てた。自分の思いが短冊に伝わればいいと思った。それから背伸びして、手の届く限り一番高い、できるだけ天に近いササの葉に結びつけた。
青空の下、きよの願いごとを引き受けたササが、夏風に揺れて爽やかな音を立てた。
(終わり)
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