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ある日、2022年6月18日。意外に完璧な何でもない日。

大したことがあったわけじゃないけど
特別な1日というのがある。
2022年6月18日はそんな日だった。

まずその日の朝に読んだ本に不意打ちで泣かされた。

「それでも日々はつづくから」という本。
作家・燃え殻さんの書いたエッセイ。

燃え殻さんの本は、
前に一冊「ボクたちはみんな大人になれなかった」
という半自伝的小説を読んでいて、
その時代感ふくめドンピシャに通じる世代のわたしは心をわしづかみにされた。
わしづかみされたというか、
「なに?知り合いなの?」ってくらい同じ時代に、
同じ場所にいたらしくて少し怖くなった。
大学時代に黄金町でバイトしていたりとか─
わたしはバイト終わりに黄金町の映画館に通っていたのだけど。
同じ頃に入門書を片手にMacでデザインの仕事を始めたり─
わたしはテレビではなく出版界に行ったのだけど。
働き始めるとゴールデン街に入り浸っていたり─
店は違うけど隣の店あたりでわたしは毎晩飲み潰れていた。
この日エッセイを読んでいたら
祖師ヶ谷大蔵に住んでる彼女の家に転がり込むという一説があってまた仰天した。
たぶんその頃、わたしも祖師ヶ谷大蔵に住む彼女の家に転がり込んでいた。
やっぱり、恐ろしいほど近くにいた。

そんなエッセイを読んでいてさらに驚いたというか、
それはわたしの過去だという一説にぶち当たった。

「誰も許さなくていい、生き延びてほしい」というタイトルの短い文章。

小学生の頃、クラスメイトに追われて逃げ込んだ掃除用具入れの中で、
扉を蹴り飛ばす音を聞きながらこの箱がタイムマシンだったらと心から願うという苦しい思い出。それが今でも時々フラッシュバックするのだという。
どうやってそこから逃げ出したのか覚えてないけど、あの時、飛んでいきたいと思った未来を今生きてるんじゃないか、だからタイムマシンはあるんだ、そう思っていま辛い人は生き延びてほしいと、そうくくられていた。

この話を読みながら自分でも信じられないくらい泣いていた。

わたしにもときどき思い出す小学校の時の思い出がある。

小学6年生のとき、いじめにあっていた。
学校に行っても保健室に逃げ込んで、教室にはいかない生活をしていた。
毎日そうだったかは覚えてないけど、小学6年の時の記憶が自分の中からすっぽり抜け落ちてしまっていて、ほとんどこの頃の記憶がない。

鮮明に覚えていることが一つだけあって、それはある日の下校の日の記憶だ。

下校しているのが自分一人だったので、
たぶんみんなが授業を受けている時間にひとり早退したのだと思う。

下駄箱のところで靴を履き替えながら柱にある鏡に映った自分を見つけて、
しばらくの間じーっと鏡を見ていた。
ひたすら鏡の中の自分を見た。
自分の顔をこんなに長い時間見たのははじめてだったと思う。

その顔を見ながら未来の自分の顔を想像した。
大人になるとどんな顔になるんだろう。
大人になったらこのイヤでイヤでしょうがない現実は
終わっているんだろうか、
きちんと自分は大人になることができるんだろうか、
いますぐこの鏡の中の自分が大人になって、
この現実が終わればいいのに。

そんなことを考えながら鏡のある柱に自分の身体を半分隠して、
鏡の中に写った半分の自分を見ながら、
鏡に映った方の片方の足を地面から離してみた。
片足を上げると鏡の中の足も地面から浮いて、
まるで宙に浮いてるみたいになる。
こうやってクラスメイトが遊んでいるのを前に遠くから見ていた。
はじめて自分でやってみた。
鏡の中の自分は空を飛んでいた。
その瞬間、重力がなくなった。
このまま未来に飛んで行けたらいいのに、そう思った。

あの時、鏡の中に見ていた未来の自分を今生きてる気がする。
ほんとにときどきそのときのことを思い出す。
あのとき鏡の中にあった重力のなくなった世界。
そのことだけは鮮明に覚えている。
タイムマシンだったんだ、あれは。

まったく同じ話ではない。
けどこのタイムマシンの話を読んでいて、
自分でも信じられないくらい泣いていた。

この人も過去から飛んできた人だったんだ。

会ったこともない人なのに、
もうなんだか完全に他人とは思えなくなってしまった。
書いたものが作者の知らないところで、誰かの運命に大きく影響を与えている。
1冊の本の力とはかくもすごいものなのだ。

その日の午後、1本の映画を見た。
「メタモルフォーゼの縁側」という
前日に公開が始まった芦田愛菜主演の映画。

BLマンガを通して知り合った
17歳の女子高生と75歳老婦人の友情物語。

いや、この映画が壮絶に自分に刺さった。

まず前提としてわたしはこういう映画に弱い。
「こういう」とは、
自分だけのものだと思っていた「好き」を共有できる相手と出会う話だ。

いちばんわかりやすいのは
ディズニーピクサーの「カールじいさんの空飛ぶ家」かもしれない。

冒頭、ある冒険家に憧れるカール少年が、
同じ冒険家に憧れる少女エリーと出会って意気投合する。
周囲には誰も理解してくれる人がいない夢を唯一わかってくれる人に出会う。
そのまま意気投合して冒険を夢に見ながら年老いていく。
この冒頭5分で号泣だった。
正直、この先どんな映画だったかまったく覚えてない。
ただこの冒頭5分は一生かけて好きと言える映画だ。

こういう映画に弱い。
世界で一人だけの理解者と出会う話。
そんな人がふいに現れて自分を見つけてくれる話。
「見つけてくれた系」って勝手に呼んでるんだけど、
「メタモルフォーゼの縁側」は久々に見つけてくれた系の最高峰が来た!
って映画だった。

75歳で「あら、きれいな絵ねー」ってたまたま手にしたBLマンガ。
そのマンガを手にしたことで始まった新しい人生の楽しみ。
誰と共有していいかわからないこの趣味を共有できる友人ができる。
それが17歳の女子高生。
その女子高生もBL趣味を周囲に言い出せず、
自分だけの世界と思って閉じこもっていた。

2人が出会って、自分の「好き」を解放して、
はじめて「好き」なことを語り合うシーン。
もうここで涙が止まらなくなった。

映画はそこから始まって、
2人で同人誌イベントに作品を出品する話になっていく。
自分なんかがマンガを描けるわけない。
そう思って閉じこもっていた主人公がつたない技術ながら、
マンガを描き始める。

ものづくりにおける初期衝動の初々しさ。
気持ちよさもありつつ、でも力のなさに絶望して、
でもやり遂げた先にはほんの少し未来が拓ける。
そういう小さな達成と挫折が描かれていて、
その姿にさらに号泣してしまった。

ああ、あれは自分だ。
25年前のわたしだ。

25年前、何もできないと思っていた自分が、
少しずつ手探りで必死にあがいて、
つたない作品を作り、嬉しさと無力さを同時に味わって、
ちょっとずつ世界を広げていった。
ちょっと嬉しいことのあとにはいつも大きな挫折が待っていた。
その頃の話を数日前にトークショーでしたばかりだった。

そのせいもあって、もう涙が止まらなくて大変だった。

「人って 思ってもみないふうになるものだからね」
ってセリフがすーっと胸に入ってきた。

これは75歳の婦人のセリフ。

子供の頃好きだった漫画家にファンレターを出そうとして、
自分の字の汚さに手紙が出せず、
きれいな字を書きたいと習字を習ううちに書道の先生になっていた。

たまたま本屋で手に取ったBLマンガがきっかけで、
50歳以上も年の離れた親友ができることもある。

人生とはそう言うものだ。

わたしの人生だってそんなもんだ。

やりたいことも、
できることも何もなくてじたばたしいていたら
いつのまにかデザイナーになっていた。

きっかけは1冊の本のデザインを頼まれたことだった。

本を読んだこともほとんどなかったのに、
なぜか本のデザインを未経験の自分が頼まれた。

「クロスロード」という
20代の人生を変える名言集だった。

この本がなかったらたぶんいまのわたしはない。

1冊の本で人生は変わる。

1冊のマンガを買う。
続きが気になって店員に声をかける。
この程度のことで人生は変わる。

人生は思ってもないふうになる。

思っていた通りの人生にはならないかもしれないけど、
思ってもみなかった人生にはなる。

映画館を出たら、さっきまで晴れていたのに外は雨が降っていた。
雨が振るとは思ってもみなかった。
傘は持ってきてなかった。

びしょびしょにぬれながら、いつも行く焼き鳥屋に向けて走った。

きっと焼き鳥屋でちょっと酔っ払って、
この映画の話をしながらまた泣くんだろうな、
それから小学生の時の話をして、
さらに泣くんだろうな、
隣でたまたま飲んでいたのが燃え殻さんなんて奇跡が
今日は起きるかもしれない。
雨に濡れながら少し先の未来を想像していた。

10分先の未来すらよくわからないけど、
ふいに起きる小さなきっかけの先に、
思ってもみなかった未来がふつうの顔をして待っている。
いつのまにか未来にいる。
まるで人生はタイムマシンだ。

2022年6月18日、意外に完璧な1日だった。




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