【映画感想】 若き見知らぬ者たち

内山監督の評判の良かった、前作「佐々木インマイマイン」がイマイチ、いいと思えなかった。
主人公のドラマが薄くて、退屈でその割、変にラブシーンは多かった気がする。
高校の同級生だった、明るい佐々木が実は、という回想のところで、やっとドラマっぽくなったと思えたが、いきなり、佐々木の親父が死んでしまう。人が死んだからといって、それが感情に刺さるわけではなく、物語が思いつかなかったのか、としか思えなかった。
その後は相変わらず、影の薄い主人公がなんだかただの棚ぼたで、仕事がもらえて、それをきっかけにしてか、故郷へ佐々木に会いに行く。
しかし、佐々木は数年前に死んでいたという…。
佐々木の親父にしても、佐々木にしても、死んでいる意味はそんなにないように思えるし、物語が思いつかなかっただけのような印象が残った。
この映画がいいと思える人が多かったのは、身近な友人の死を思い起こさせるからというぐらいのことなのかもしれない。本当のところはわからないが…。
この映画で良かったのは、映画の途中で、主人公らが、カーク・ダグラス主演の「チャンピオン」という古いボクシング映画を見ていて、自分がその映画を偶然見ていたのでちょっと嬉しかったというところぐらいだった。「チャンピオン」という映画は、強欲な成り上がりのボクサーを描いていて、「佐々木」のストーリーとはあんま関係ないと言えば関係ないのだが。

そして、今回の「若き見知らぬものたち」
(何だか文法が変。しかし、この映画感想文も自分で書いていて、文章下手になったな、自分の思うように書けてないし…。と思っているので多めに見るし、読む人も多めに見てください!)
いきなり、主人公の彩人の母親が、ぶつぶつと独り言を言って、弟のサンドバックを叩いているシーン。精神を病んでいるみたいな描写なのかもしれないが、「こんな人いる?」と思えてしまった。(日本の映画にはこういうことが多い)
そのほかでは、コップに溢れても何かを注いでいるシーン。きっと、精神病について調べてないからこう、単純な行動に出るしかないんだと思ってしまう。
調べていたら「本当にすいません」なのだが、調べていたら、調べてこうなの?と、どっちにしても批判というより悪口になりますね…。
その後の机の叩き方など、演出がどうかと。演じる俳優の人が可哀想でもあった。
お母さんが畑みたいな場所にいるもの、何それ。としか思えないから、そのあとで彩人が台所で泣き始めても、一応、不幸が降りかかっているからという理屈なのだろうけど、心に響かないので、なんで?としか思えない。
その後の、ただ突っ立っている母親はなんだかシュールで、ミームか何かにしたくなるおかしさがあった。ミームってよく知らんけども。

彩人が酔っ払いに絡まれるシーンなど、とにかく、主人公を不幸にするためにしか物事が起こっていかないのではないか?
これ、俺がバーでバイトしていた時に本当に起こったことです。と監督がいうなら、脈略がないけどまだいいが。きっとそんなこともないので、頭で不幸な人の話を考えたにすぎないのだろう。

今の時代に生きることの厳しさ、などを描いているつもりだったりするのかもしれないが、共感ができない。
これなら『ベイビーわるきゅーれ』の殺し屋組織の方が、そのシステムの世知辛さに共感できる。
『ラストマイル』の強欲な資本主義と、そこで働く人たちに共感できる。
『マンデイズ』のタイムループしていて、今日の日にちが分からないのも共感できる。
なぜかドラマではなく、アクションやサスペンスなどジャンルもの方が共感できやすい映画が多い。今のところ、その理由はよくわからないけど…。

この映画もそうだけど、最近、世相を反映してか、『アンのこと』や『ミッシング』『月子』など、邦画では「不幸映画」と名称したいものが多い。
映画サイトのレビューが高いものが多いものの、自分的にはあまりどれもいいとは思えない。
「不幸映画」はとにかく、話の筋に不必要に思えても、主人公たちを不幸に追い詰める事件が起こりさえすれば済む。

『月子』は障害の子を持った親の描写が、杜撰に見える。
父親はとにかく、女に逃げ、母親も他の男。その割に彼らの苦悩はよくわからない。障害児がいるから不幸でしょぐらいのことなのかも。
障害者=迷惑という図式でしか描けていない。何も感情もなさそうな障がいを持った子供をじっと写す手法がグロテスクで(これでいいだろうという監督の心情によるだろう)その描き方は稚拙で差別的でもある。
障害者の子供を持った=不幸、それで殺人と短略的思考で物語が進むのも怖いところで、(感情が描けていなからそうなるのでしょう)主人公らと同じ境遇にある人が見てならまだしも、障害者と何の関係もないのに「わかるわかる」と共感して鑑賞する客がいたとしたら、それもなかなか怖いものがある。

『アンのこと』は途中で他人の子供を預かることになることに意味がなく、アンを自殺に追い込むアイテムにしかなっていない。
アイテムである子供を母親にどこかに捨てられたと思ったアンが、子供を探しに行きもしないで、(人の子供だよ?)耽美的に悲しみに浸っているのもおかしい。子供を捨てた母親がいきなり改心しているのも何なんだろう?
それにあんまりコロナの感染症の時代の意味がない。

『ミッシング』は登場人物が揃って愚かな行動をして、その結果、不幸にはまりこむ。行きすぎた報道に、議員などのお偉いさんの肩を持つのも変な感じがする。

これらの映画の物語は、ただ一点、主人公たちを死や悲しみなど「不幸」に向かって突き進んでいく。
何となく、こういった単純な映画の作り方は、とにかく、人を残虐に切り刻めば済むと思って作られている八十年台のスプラッター映画にも似ている。(もちろん、スプラッター映画にも、工夫が必要なことはわかりますよ!)

本当に監督や脚本家にこの物語を描く意味、自分の体験や心情があったのか?あったとしても、やっぱり、映画として心に響かないと、何もないと思えてしまうのではないか…。






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