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知識が発想の邪魔をするか?

知識を貯めすぎると発想の邪魔をする、という論調があるのですが、これって本当に正しいの?って思うことがあります。

知識とは?

広義には「知る」といわれる人間のすべての活動と,特にその内容をいい,狭義には原因の把握に基づく確実な認識をいう。ある特定の主体についてのこのような知識がさらに概念的に規定され,論理的,体系的に組織されたものが学問である。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

知識とは、広くはノウハウや感覚的なものを含めた人間の認知した内容を指していそうです。例えば職人の「こんな感じで作る」とか、音楽家の「こんな感じの音」という言語化できないエリアなどが入ってきそうです。

狭くには原因が何か分かっている内容を指していそうです。例えば「鉄の加工には高温が必要」とか「このコードはこのコードに進みたがる」といった内容ですね。

そしてその知識が体系的に整理されたら”学問”となるわけですね。
「鉄の加工には1200度〜1500度の高温が必要」といった素材工学的な学問や「ドミナントコードはトニックコードに進みたがる」といった和声学といったものになっていきますね。

私は素材については詳しくないので音楽的な方向で整理しますと、

(広義な知識)「なんか良く分からんけどええ音なんよ〜」
(狭義な知識)「このコードからこのコードへ行くとええ感じなんよ〜」(学問)「ドミナントコードからトニックコードへ行くと終止感があって気持ちいいんよ〜」

となりますね。

発想とは?

物事を考え出すこと。新しい考えや思いつきを得ること。また、その方法や、内容。「発想を切り換える」「先入観を捨てて発想する」

デジタル大辞泉

新しい考えや思いつきを得ることとあり、先程の広義もしくは狭義な知識を新たに獲得することと考えられそうです。

「知識が発想の邪魔をする」というのは、学問的な知識において語られることが多くあるので、「学問的に体系立てられた知識は、新しい狭義広義の知識獲得を阻害する」と言えそうです。

なぜこれが起こりえるかと言うと、こう言った知識の多くが帰納的であるからと考えています。

帰納とは?

個々の事例の観察からこれを含む一般命題を確立する推理。演繹に対する。完全帰納 (結論にいたるためのすべての事例を枚挙しうる場合) と不完全帰納 (事例のすべてを尽していない) の2種がある。前者は既知の事実の列挙にとどまるから演繹的論証の一種ともいえる。後者は結論への飛躍 (帰納的飛躍) があるが新法則の発見にいたる。

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複数の事例から一般化した知識を得ることを指します。
例えば、「ミカンは食べられる」「りんごは食べられる」から「木になるものは食べられる」という一般化した知識を得るような感じです。

説明でもある通り不完全帰納である場合(世の中の事象はほとんどがそうであるかと思いますが)、すべての事例を網羅できず結論への飛躍による新発見がある一方、新しいイレギュラーケースの可能性を常に孕んでいます。

例えば、先程の例だと、梅という新しい木になる食物が毒があって食べれないというイレギュラーが発生しえます。

そう、この帰納的な知識であることを正しく理解せずに、「AであればBである」という知識を鵜呑みにしてしまい、イレギュラーケースを排除してしまうので、「知識が発想の邪魔をする」という論理が生まれるのではと思っています。

そのため正しくは「学問的知識のイレギュラーを想定せず、あらゆるケースにて知識を無理やり当てはめようとすると、新しい知識の獲得を阻害する」というのが正しい因果関係であると思うのです。

すなわち

学問的知識のイレギュラーを常に意識することができれば、知識は正しく運用できるはずなのです。
この知識はどの範囲で確定的と言えるか、どの範囲で信頼たるものか、未発見はないか、こういった思考を常に知識に対して持つことで、逆説的に新しい知識を発見=発想することができるのです。これを温故知新と言うのだろうと思うわけです。





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