石巻の海は美しかった
あの日から12年。干支が一周してしまいました。この機会に思い出話を。臭い自分語りになってしまいますがお付き合いください。
あの日、私は
2011年3月11日は金曜日でした。当時小学校3年生。こう考えると遠い昔の出来事の様ですが、あの日の事は今もはっきり覚えています。休日を前に少しほっとした気分で過ごしていたかもしれないし、「まだ昼前か、早く帰りたいな」なんて思っていたかもしれません。もうすぐ未曾有の大地震が来るとも知らずに、当時の日常を歩んでいました。それは栃木に住む私だけではなく東京や東北の人々も同じだったに違いありません。
記憶が正しければ13:35に昼休みが終わり、その後15分間の清掃を挟んで14:00に5時間目が始まるのが当時の時間割でした。5時間目の授業が少し早く終了したのかもしれません。次の6時間目が移動教室で、1階だか2階の自教室から3階に上がった筈だから。早々に移動して来て教科書を机に置いたまさにその瞬間でした。
14時46分、東北地方太平洋沖地震発生。
足元が揺れるという事を生まれて初めて味わいました。ほぼ同時に一緒に居た同級生が「地震だ!」と叫び、反射的に机の下に飛び込みました。校舎の3階という条件がより恐怖感を煽り、ひたすら怯えていました。暖房機のパーツが外れて床に落ち、書棚に重なっていた書類も散乱し、窓枠のガタガタ鳴る音がそこら中から聞こえてくる。この校舎が崩れないか不安になりました。そんな中放送室から教頭がアナウンスしました。その声に余裕はなく、うろたえているように感じられました。本震が収まったのち、余震で揺れる校舎を後にして命からがら校庭に出ました。既に全校児童に近い人数が集合しており、避難訓練でやったように校庭の真ん中にクラスごとに並んでいました。自分のクラスの列の後方に座り、この先どうなるのかという不安に怯えていました。保護者や近隣住民も校庭にやって来ました。先生方の指示を待つ全校児童。余震で波打つ窓ガラス。恐怖のあまり泣き出す子も多くいました。
結局6時間目を実施できるわけもなく、授業打ち切りでそのまま下校となりました。幸い自宅が小学校からほど近く、当時はまだ祖父母も元気で母親が終日在宅していたためすぐにお迎えが来ました。上履きのまま家までの道を歩いていると壊れたブロック塀が道端に落ちており、先程の地震の被害が並大抵ではない事が感じられました。玄関をくぐって祖父母との再会を果たすと、手洗いもほどほどにして居間に入りました。本棚の中身は全て崩れ落ち、台所の食器棚も悲惨な状況でした。祖母曰く、蔵の漆喰は全て剝がれ落ちたと。家が崩れると怖いから車に避難していつでも家から逃げられるようにしたが、エコノミークラス症候群になるのを恐れて結局家に留まる事にしました。確かに所々に被害はありましたが、祖父は百年もつ家だから大丈夫だと言い聞かせていました。そしてテレビは我が家と近所のそれとは比較にならないほど深刻な都心部と東北地方の被害状況を伝えていました。
天井の崩落、建物の倒壊、列車の脱線、大津波警報、帰宅困難者、どこの誰が安否不明。聞き慣れないワードが飛び交っていました。そしてヘリコプターが追う津波の映像。家々を押しつぶし押し流して沿岸部の街を飲み込んでいく。驚きのあまり言葉が出ませんでした。繰り返される余震に震えながらニュースの画面に釘付けになりました。
地震の規模は当初M7.9と推定されていましたが8.4→8.8→9.0と3回修正されました。M9.0は日本で起こった地震でも歴史上最大の規模です。震源から250km離れた地元でさえ震度6強。震源に最も近い宮城県北部では震度7を観測したといいます。夜の東京では電車が動かず帰宅難民なる集団が生まれ、自宅まで何十キロも歩いて帰る人も現れたそうです。日本が混乱に陥った。この国の終わりか。そんなことさえ思いました。
その日は文字通り震えて眠りました。あれほど大きな地震は未だかつて経験した事がなかったし、激しく揺れる建物は今にも崩れそうで怖かったのです。幸いにも私の周りでは先述した内容の被害が全てでしたが、翌日以降もテレビや新聞が映し出す東北地方や首相官邸の映像で我々の日常は崩壊したと思い知らされました。
延々と流れ続けるニュース、その周りに表示される津波警報、死者・行方不明者の名前や人数といった被害状況。これらの情報は絶え間なく更新され続け、いったい何人が犠牲になってしまったのか、いったいどれほどのダメージを被ってしまったのか、国としての機能が麻痺してしまってはいないか、子供ながら心配で仕方なかったのを覚えています。
そして地震と津波の被害が深刻な被災地に追い討ちをかけるように原子力発電所で爆発事故が発生。既に社会の授業で核の恐ろしさを知っていたので更にとんでもない事が起きてしまったと気づきました。
東京からは作業着に身を包んだ閣僚達の姿が映され衝撃を受けた事を覚えています。元通りの生活に戻れるのか、そんな不安を抱えながら、それまでとは変わった日常生活が始まりました……
10年後
厳密には9年11ヶ月と3週間後、初めて津波の被災地を訪れました。今やあれほど打撃を受け多くを失った東北は見事に立ち上がっていました。当然いつまでも津波で壊滅した町のままではないし、鉄道や漁業の復活で日々前進する被災地の人々をテレビ画面越しに見て来ました。しかしこの頃になると、現場を生で見たいという思いが沸き起こって来たのです。宮城県にも福島県にも何度も行ったものの、海沿いに行ったことは一度もありませんでした。東北本線の車内から松島を垣間見た程度で、被害の大きかった三陸方面に行く機会には恵まれませんでした。
このタイミングで行ったのは10年という節目が目前に迫っていたのもありますが、この年の1月に石巻線佳景山駅付近で仙石配給を撮った事が最大のきっかけだったかもしれません。佳景山は住所的には宮城県石巻市であり、そこは地理に疎かった幼時の自分には3.11の津波における最大級の被災地としての認識しかありませんでした。そもそも石巻線は、非電化区間を国鉄型機関車のDE10が牽引して走る貨物列車に魅せられて知った路線であり、震災から数年後にはコンテナ満載で石巻港と小牛田の間を淡々と往復している事を知ってその復活の早さに驚いていました。通称「石巻貨物」が運ぶのは日本製紙石巻工場で生産された紙製品で、ここから東北や関東各地に発送されていきます。貨物列車がそこで担う役割は大きなものだったでしょう。津波で被災した製紙産業の一大拠点が再びかつての様な役割を果たしているのも凄いことです。以前この工場の事が書かれた書籍を見かけました。被災から復興までの壮大なドキュメンタリーを現場の視点で追うのにはとても興味があります。
全国の貨物列車好きの注目を浴びる石巻線のDE10にも世代交代の時期が迫っており、ダイヤ改正で後継機のDD200に取って代わられる前にしっかり記録しておきたいという思いから、今回の遠征に踏み切りました。被災地訪問はついでの用事でしたが、欠かすつもりはありませんでした。
撮影の記録は省略しますが、最初の列車を撮り終えて昼食を取り石巻市街地を目指すと「ここから津波浸水区域」という標識が目に入ってきました。沿岸からはそこそこ離れていた場所にあったので大津波の威力を改めて認識しました。
市街地は住宅街の中にショッピングモールや飲食店が立ち並ぶ月並みな地方都市の雰囲気でした。既に津波で浸水した区域に入っていますが、街には人や車があふれ、平穏な日常がありました。
まず、JR貨物の石巻港駅周辺を見てみました。仙石線を越えて臨海部に入るとトラックの数が増え、工場群が現れました。海沿いには巨大な防潮堤がつくられ、その上から見る海(内陸県民にとって久々の海)は青く綺麗でした。この海が10年前に沿岸で暮らす人々に牙を剥いたとは思えないほどに穏やかな波が寄せては返していました。トップ画像はこの場所で撮影したものです。
沿岸部の道路には大型のダンプが行き交い、復旧作業を行っていると知れました。防潮堤も建設途中で、端の方では作業員が黙々と整備を行なっていました。石巻港駅にはコンテナを積んだ貨車が停車し、フォークリフトが行き来して荷物を積み下ろしていました。私が見たのは、あの海のそばで立ち上がった港町の姿でした。
駅を離れ、工場群に程近い石巻南浜復興祈念公園を目指しました。かつて住宅街があった場所は公園として整備され、人々の祈りの場となるようです。そこに近づくに連れて沿道には更地が目立ち、重機やダンプカーが動き回っていました。まだまだ復興の途上にあるのだと強く感じました。
祈念公園の敷地の大半はだだっ広い更地で、ここでも作業が行われていました。
この場所に、かつては家々がひしめき合い、小学校もあったそうです。活気溢れる町だったのでしょう。それが一瞬で消え去り、瓦礫の山と化した。胸が痛みました。中心部や港町の賑わいを見ると、10年という時の長さを感じるとともに、大自然の力を前にした人間の無力さも感じました。そしてそこから立ち直った石巻の人々のたくましさを知りました。
更地の真ん中には「がんばろう!石巻」と書かれた大きな看板があり、その横に献花台がありました。被災から間もない頃に地元の学生によって作られ、復興のシンボルとなったそうです。
この地で失われた命を憂い、またこれからの復興と石巻の発展を願い、鐘を鳴らして静かに手を合わせました。
皆様も、機会がありましたら一度は被災地に直接足を運んでみる事をおすすめします。現地を見て歩いてその空気を肌で感じてみてください。そして美味しいもの食べて写真を撮ってみましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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