短編「プレコの夜」

「・・・判断は独善的、他者への共感性は極めて低い。人がゴミだと判断する情報も全て拾う。FIQ(総合IQ)は130、だけどバランスが悪すぎるね。さらにいうなら、君の世界には白と黒しかない、大多数の人と見えているものも違う。どうしたらいいんだろうね。」
ロマンスグレーで、50代くらい?顔の整った優しそうな精神科医が言うと、えげつない発言でもまろやかに聞こえる。
しかし、どうにかしてくれるのがお医者様なんじゃないのかしら、と心理検査の結果を聞きながら、医者の後ろにある窓の外をぼんやりと眺める。

緑はどこまでも濃く、日差しが容赦なく照りつける。極彩色の花、あれは何という花だろう、夏の押し売りのような景色にも、何の感慨も湧かなかった。平安貴族なら、和歌の一つでも歌いたくなるのだろうか。

「じゃあ、いつもと同じ薬を出しておくからね」仕事用の笑顔を向ける医者に、同じく患者らしい笑顔を返す。処方箋さえ貰えればいい。睡眠薬の処方箋を手にクリニックを出ると、窓に大人しく嵌っていた夏の景色がどっと私に押し寄せた。葉が反射する光は目に痛く、日光は肌をちりちりと刺してくる。アスファルトの空気は揺らいで逃げ水まで出ているじゃないか。近所だから、と徒歩で来たことを激しく後悔する。背中にじっとりと滲む汗に不快感を抱きながらマンションへと急いだ。

部屋に入って冷房をかけ、冷えるのを待ちながらシャワーを浴びる。医者の言葉も夏の景色の暴力も、水と共にキレイさっぱり流れていく。頭から浴びた水が、顔から背中から、あらゆるところを経由して排水溝に消えていく。禊、という言葉が浮かんで消える。毎日毎日、浮かんでは消える単語たち。ひっきりなしに浮かぶ君達のせいで、すっかり私は不眠症者だよ。考えが散らかって来たな、そろそろ出るか。

部屋に戻ると、すっかり心地よい空気が出来上がっていた。プールの後のような気怠さと、空気の心地よさでだんだんと眠くなってくる。時間はまだ13時を回ったところだ。有給もとったことだし、昼寝という贅沢も良いじゃないかと、布団をいそいそと敷く。横たわったところまでは覚えている、すぐに眠りに落ちてしまった。

どのくらい寝ていたのであろう。薄く目を開けると部屋の中が仄暗い。窓に目を向けると、昼間の強烈なお天気とは一転、大雨となっていた。気温は少しは下がったのかしら、と窓を開けたらば予想外の驟雨で、慌てて窓を閉めた。

そのときである。するり、と私の脇の下を何かが入り込んだ。蛇?はこないだろう、ここは5階だ。何だったんだ。部屋の中を見回しても、別段変わったものはいなかった。何かを脳が誤判断したのであろう。私は一般的な人から見たら狂ってる。何かが入った気がする、くらい可愛いものだ。気を取り直して、もう少し寝ていようか夕食を作ろうか迷う。時計を見ると、16時だった。食欲はない。雨のせいか、中途半端な昼寝のせいか、怠かった。まだ暖かい布団に潜り込んで、タオルケットに包まれて幸せを満喫した。

目が覚めたとき、今度こそ夜だと確信した。窓の外にある、外灯の光や他所の家の明かりが差し込んでいたからだ。ぼんやりと、光差す窓を眺めていたら、何かが窓に貼り付いていることに気付いた。サメ?魚?何の?観察していて分かったことは、口を吸盤代わりに窓に貼り付いているようだ。形はサメに似ているが違うだろう、以前ホームセンターで見たことがある、プレコという魚の仲間ではないか。夕方、するりと入ってきたのは彼(彼女)だったのかもしれない。とうとう幻覚まで見るようになってしまったか、私は。
もう22時だ、明日はお仕事だから、睡眠薬を飲んで寝てしまおう。寝てしまえば、大概のことは遠い昔の話のように、なんてことのない事象になっているだろう。

しかし、こういうときに限って薬は効かない。どうにも窓の魚が気になって仕方がなかった。起き上がり、意を決して近づいてみる。逃げるか消えるかだろうとの期待を裏切り、魚は動かない。きろり、とこちらに目を向けた。「あなた、何?なんでうちにいるの。」魚に話しかける自分が阿呆のように感じられる。そもそも幻覚かもしれない上に、なぜ言語が通じる前提でコミュニケーションを図ろうとしているのか。自らの異常性を際立たせるような状況に、体も頭も重く感じられる。どうしたらいいんだろう、本当に。

「君こそ誰、ここは君の巣なの」

魚が喋った。いや、口は窓に貼り付いた吸盤だ、正確には思考を送ってきたのだ。返答が来たことに戸惑いつつも、私は答える。

「私はチヨミ。比良坂チヨミ。ここは私の部屋で、あなたが勝手に入ったの。名乗るべきだし、挨拶くらいしたらと思うんだけど」

下に見られたら何をされるかわからない。魚の目を見据えて、強い口調で言い返した。魚は答えない。2人で見つめ合ったまま、時計の秒針の音がカチカチと部屋に響くのを聴いていた。外を車が通ったらしい、窓にライトが一瞬差し込む。ようやく魚が語り始めた。

「やはり君の巣か、ごめんね勝手に入って。名前って何?こんばんは。」

変な答え方だな、と思った。そうか、最後に挨拶くらいしたら?と私が言ったから、「こんばんは」と最後に言ったのか。なるほど。

「名前っていうのはね、私だったらチヨミ。無かったら、呼ぶときに不便でしょう?君のことはなんてよべばいいの?」
「君はチヨミと呼べばいいのか、でも僕は僕で、呼ばれたこともないし、このように僕以外の存在と関わったこともない。なぜ君はぼくをしったのだろう。わからない、すきに呼べばいいと思う。」

要するに、このサカナは人間と関わったことはないのか。私だから、人の気づかないものを見てしまうから、出会ってしまったのだ。「サカナ」と呼ぶのもさすがに無粋だ、とはいえ適切な名前がすぐ浮かぶほど、名前というものに興味もない。

「普通の人間とは違うらしいよ、私。だから君を見つけたんだと思う。名前、思いつかないからしばらく『君』って呼ぶよ。」
「チヨミは『人間』という生き物なんだね。たくさん歩いてるのは知ってたよ。ここは人間の領域なんだね。ちょっと、その長いところにくっついていい?」

そういうと、サカナは私の腕にくっついた。吸盤がかすかに皮膚をはんでいるのかこそばゆい。

「暖かいんだね、人間て。それともチヨミだけ?柔らかいし結構好きなんだけど、いてもいい?」

サカナはひんやりしていた。思っていたより心地よく、何より誰かと共にいるという事実が、心にほのかな明かりが灯した。「くっついてなよ、そのかわり布団にいくからね。」と伝えると、素直に貼りついたまま一緒に横たわった。サカナは寝ていても目蓋を閉じない。寝てるんだか私を観察しているんだか分からないが、独りじゃない寝床が新鮮だった。薬を飲んでも寝られないのに、すんなり夢の中に落ちていった。

⭐︎
朝日が登る。今日も猛暑日になりそうだ。サカナはまだ腕に貼り付いて添い寝していた。「チヨミ、目に蓋があるんだね。開いてる時は起きてるの?」「おはよう。まず起きたらおはようって言うんだよ、人間は。目に蓋があるよ、開いてたら起きてる、あってるよ。」「チヨミ、おはよう。蓋があるんだね。」

今日は仕事だ。実験補助だから、ほとんど誰とも喋らず1日中実験三昧で気が楽だ。仕事の間、サカナはどうするんだろう。

「君さ、巣に帰らなくていいの?」
「巣はないよ。昨日はうっかりしてたんだ、空を泳いでいたらいきなり凄く雨が降ってきて。どこでもいいから雨のかからないところに入りたかったんだ。」
「サカナなのに濡れるのが嫌だと?まあいいや。じゃあもう出て行く?私、今日仕事で家にいないけど。」
「仕事って何」
「んー、別の建物で、ご飯を買うために働くんだよ」
「ここにいてもいい?初めて僕以外と交信できるチヨミと、もうちょっと一緒にいたい。」

サカナは家で私を待っているつもりらしい。すごいな、今日は初めて人(サカナだけど)の待つ家に帰る経験をするのか。想像してみる。ドアを開けて「ただいま」って言うのだ、何十年ぶりだろう。くすりと笑みが溢れてしまう。

「ああ、そうだ、君ご飯はどうするの?」
「ん、寝てるときチヨミにもらったから大丈夫。」
「は?何食べたの?まさか肉?!」
「違うよ、寝ながらも人間て色々頭が忙しいんだね。思考を少しもらえるみたい。けっこうなエネルギー量だね、チヨミの考えって。」
ああ、だからよく眠れたのか。これは有り難いかもしれない。
「じゃあ適当に過ごしててよ。特に大事なものもないから、使いたいものあったら使って。それと、『いってらっしゃい』って言ってみてくれない?」

サカナは首?を傾げつつ言う。
「いってらっしゃい」
「いってきます」


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霜林 穂
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