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ユクスキュル・リバイバルの色々①

ユクスキュルリバイバルの周縁

 近年、特に英語圏でのユクスキュルリバイバル(とまではいかないものの再注目)が生じつつある。そのひとのきっかけがユクスキュルの著作を改めて英訳するプロジェクトだ。その中でも特に2010年に再訳された"A Foray into the Worlds of Animals and Humans: with Theory of Meaning"は訳者の序文も含めてかなり評判がいいようだ。(日本でも邦訳のプロジェクトがありますので、お待ちください。)

では、なぜ今ユクスキュルなのか?について述べておきたい。このリバイバルは単なる学術的な動向というよりは、むしろ実生活に関わる問題から要請されているようである。特に気候変動など、これまでの文明のあり方そのものの方向転換がリアリティを持つようになったことで、脱人間中心主義的な新たな方向性を示す理論的バックグラウンドとしての役割が期待されているように感じられる(アートなどの文脈ではそれが如実に現れている)。資本主義経済を含め、これまでのシステムが耐用年数を過ぎ、さまざまな領域で新たな理論や言葉の必要性が実感されている今、「環世界」というキーワードをめぐる近年の動向を整理しておくことにしよう。

 さて、最近のユクスキュル・リバイバルの動向だが、やはりユクスキュルの思想に関しても学術的なコミュニティのようなものは存在していて、タルトゥ大学あたりを中心とした生命記号論系の議論がメインストリームとなっている。

 ユクスキュルに限らず、リバイバルというものは単にこれまで論じられてきたテーマの再検討だけでなく、これまでのメインストリーム自体を見直すきっかけにもなり得る。この記事ではそうしたきっかけになりそうな議論を、メインストリームからは少し離れたところから取り上げてみようと思う。

非器官的な世界との関わり・・・とは

 第一に取り上げたいのは、E・コッチャの『植物の生の哲学』である。この著作ではユクスキュルの環世界論が批判的に扱われている。その批判点は環世界は器官的であるという点だ。

 環世界論を簡単に説明すると、動物が生きている世界は、眼などの受容器官を通じて動物種に特有の刺激のみを受け取るフェーズと足などの運動器官を通じて特定の応答を行うフェーズから組み立てられており、そこに関わってこないものは、動物にとって端的に存在していないのと同じ、という議論である。(詳しくはちょっと違うのだが。)

 では、この議論のどこがまずいのか?批判のベースにあるのが存在論的なレベルの議論であることに注目しなければならない。結論を先取りしてしまうが、コッチャにとって存在するということは「その身体と存在の全体でもって世界に接している(p. 59)」様を意味する。動物は器官を通して世界と関係を持つが、それ以前に植物のような全身を世界に浸すような関わり、というか形而上学的構造があるだろう、というのが彼の指摘だ。そして、そうした存在の仕方のモデルとなっているのが、著作のタイトルから分かる通り、植物である。

 つまり、感覚器官や運動器官といった器官を用いなければ世界を構成できない環世界というモデルでは捉えきれないレベルの世界との関わりがあるという議論だ。

 実験と観察に基づき、動物の生きている世界に議論を限定し、物理化学に還元できない学問として生物学の固有性を打ち立てようとしたユクスキュルと植物をモデルに存在論的な議論をしているコッチャでは、そもそも論点がずれているのだが、世界を器官の相関物として構築することへの批判は、カントを議論のベースとしているユクスキュルにとっては必ずつきまとうものだろう。

 しかし、ユクスキュル自身がすでに植物は「特別な環世界器官を有しておらず、その生息環境に直接浸されている」と述べており、動物においても水や空気などの媒質mediumに「浸る」ことが生存の基本であると述べていることを考えれば、非器官的な存在の仕方についての何らかの関心はあったと思われる。ではコッチャによる、環世界論の根本を切り崩すような批判にどう答えるのか。

 環世界論の成立は、ユクスキュルが生理学者としてキャリアをスタートしたことと結びついている。環世界は動物の生きる主観的世界と漠然と捉えられているが、その真意は神経系によるフィードバックループを有するものの世界である。神経系にとって、情報収集は器官を通じて行われる。つまり、認識のための素材=質料を作るの役割が器官の役割というカント的な発想である。

 コッチャの批判を真剣に環世界論に反映させるとなると、そもそものカント的な枠組みの再編成が必要になり、記号論の出番ということになるだろう。

 しかし、記号論とは別の道筋は考えられないか。仮に器官的な知覚と、より広い非器官的なものを含む感覚を区別し、感覚すること≠知覚することを世界との関わりに取り戻すこと。しかし、あまりにも詩的な言語仕様になることは避けなければならない。

 世界との関わりにおける動物的なモデル/植物的なモデル。一見すると共役不可能に思えるこの二つだが、ユクスキュルの議論にはそれらを横断するキーワードが潜んでいるように思われる。それが「対位法」という用語である。これについては次に取り上げる本を参考にすることにしよう。

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