葬儀社としての初心
ピンポーン。。。
インターホンが鳴り、親戚の方々が祖母の顔を見に来てくれました。
↑↑前話はこちら↑↑
祖母の亡骸のそばで手を合わせて、早々に葬儀はどうするんだ?と話しが始まりました。当時、親戚も自分たち家族を心配して聞いてきてくれたのですが。。。
死に直面したあの時は上手く捉えられませんでした。
ばーちゃんに手を合わせた後、
一同は1つの部屋に集められて、話し合いの始まりです。
ここは典型的な田舎の部落。
集落のしきたりや見栄、風習を大事にしろと年寄り達がこぞって言ってくる地域です
喪主であるじーちゃん(愛称:パパ)は92歳。
頭はしっかりしてますが、耳も遠く祖母の突然の死去に頭がまわっていない様子です。
そんな状況をつくように親戚が好き勝手な事を言います。
『安い葬儀なんてだめだ!』
『ちゃんとしたセレモニーホールで式をあげろ』『地元の葬儀屋が1番安心だ!』
言いたい放題です。
僕は内心思います。
『今まで祖母の顔も見にこなかった人達が葬儀になってなんで急に仕切りだしてんだよ。葬儀をどうするかはうちら家族が決めるもんだろ』って。
でも、じーちゃんの顔を潰さないようにと思い、ぐっと何も言わず我慢してました。
しばらくすると親戚が勝手に地元の葬儀屋を家に呼んでいました。
その葬儀屋は、到着するなり、故人に手を合わせることもなく、家族に対しての心ある対応もなく、祖母の様子を見に来ていきなり布団をめくりこう言います。
『あ、ドライアイスはあてたんですね』・・・・。
手も合わせず、表情を伺う事なく、遺族として彼らの対応に怒りを覚えました。
自分の考えですが、亡くなった方の魂は身体を離れ、僕らを見ていると思うんです。
故人は僕らを見ている、生きていた世界から離れても、見てくれているからこそ、僕らの想いは必ず伝わる。そう思うんです。
だからこそ、僕は過去に担当した葬儀は全て、必ず故人様に声を出して
ご挨拶するようにしていました。
見てくれている。そこに心から関わり伝えたい葬儀屋として、
それがせめてもの供養と故人様の尊厳を守る行為として重じてきたんです。
しかし、この地元の葬儀屋は違いました。
故人の尊厳を守ろうとしないし、ばあちゃんの心の声を聞こうともしない。
長年の歴史がある地元に根付いた葬儀屋とは言え、僕は彼らに葬儀をお願いしたいと思えませんでした。
そのあと、葬儀屋を交えての話し合いは始まりました。地元葬儀屋は一生懸命、うちのじーちゃんに費用の説明をしていました。
総額100万は余裕で超える内容でした。
『ばあちゃんの葬儀をどのようにしたいか?』などのヒアリングは全くありませんでした。
実は親戚達はこの葬儀屋と知り合いで悩んでるじーちゃんに『ここに決めれば?』とクロージングをかけてきます。
いや、おいおい。
僕は今までずっと黙っていたが、もう我慢の限界がきました。
『ばあちゃんはもう安らかに自分のベットで休んでいる。今ここで急いで葬儀をどうするかを決める必要はある?じーちゃん、一旦話しを預かり、別の部屋で家族だけでどうするかを決めよう』
僕がそういうとじーちゃんは少し黙り込み、
『そうだな。せっかく来てもらったのに申し訳ないですが、
一旦預からせてくれませんか?』と
そう言って葬儀屋を帰したのです。
そしてうるさい親戚の前でも話しが進展しないので、
別の部屋へ移動し、家族だけで葬儀をどうするかを話し合う事にしたんです。
『あの心無い対応の葬儀社にばあちゃんを任せることはできない。ものすごく豪華とかウチの葬儀社は、そもそもそういうことで故人をおくりだすわけではないから進めることもないし、費用も俺たちなら100万もしない。その3分の1以下の費用でできるよ。』
『少しばかりやってもらう事は増えるかもだけどじーちゃんの要望、家族の要望は全て叶えるし、みんなで送るお金ではない葬儀をあげない?』
そう伝え、
僕らがやっている葬儀のパンフレットを見せて
お金をかけない家族主導の家族葬をあげる事になりました。
葬儀はお金ではない。
本当に思うのは、もちろん、風習やしきたり代々伝わる習わしを守るのも大切なことだけど、一番は残された家族が残りの人生で故人を心に想いながら生きていける環境を作ることじゃないかと。
お金の負担があったり、見栄ばかりの葬儀をあげて、あとで苦しくなるなら
お金をかけない心で送る葬儀をするべきだと、ばあちゃんの死にふれたことで葬儀屋として誰に何を心を尽くしてご提供するのか、1年また1年と月日が経ってもここに立ち返ることができます。ばあちゃんありがとう。そして見てくれているばあちゃんに恥じない仕事をしてきます。
お読み頂き本当にありがとうございます。
本年も心を尽くして葬儀を執り行って参ります。