物を乞う(2)
苦しんでいる自分は助けられて当然だ
困っている自分は助けられて当然だ
泣いている自分は助けられて当然だ
「してもらって当たり前」だと思っている当人は、他人からそれを指摘されても意味がわからないしまったく検討がつかず困惑する、もしくは反発をする。なにせ「当たり前」のことなのだから、わかるはずもないだろう。
「当たり前」がどういうことなのかというと、「水道の蛇口を捻れば水がでる」くらい当たり前のことなのだから。水を持ってきて、といわれれば蛇口を捻ってコップに水を持ってくればいい。
でも、蛇口を捻っても水がでなかったら・・・?蛇口を捻れば水がでるなんて日本では当たり前のことなので、蛇口から水がでなかったらさぞ困惑するだろう。日常のなかで無意識に使っており、人間には不可欠な水。当たり前のようにある水。災害のときに生活インフラに支障がでたときにはじめてそのありがたみがわかる。
「してもらって当たり前だと思うな」
これを聞いて困惑しない、他人のことだと思うのならば相当「当たり前」になってるので気を付けた方がいい。下手したら手遅れかもしれない。
よくネット広告に出てくる、雪の日に薄着の裸足で路頭をさ迷う子どもがパン屋に物乞いに行き、運良くパンを手に入れてこれまたなんでこんなにボロボロで住めるのか?というような家に病に臥せった母親がいる。
こんなに可哀想な姿の子どもがパン屋で売れ残りのパンをもらって当たり前でしょう
の完成されたプロモーション映像だと思っている。
言い方は悪いが、困って苦しんでいてお腹が空いているから、パン屋で物乞いをすればパンをもらえて当然だと思っている乞食。
実際、そのパンは誰かが汗をかき、手間をかけて育てた小麦を、運ぶ人間、職人の知識・技術・手間をかけた「仕事」によって作られたものだ。パンはその対価として金銭と交換する。
パン屋にパンを買いに行く人はお金とパンを交換する。仕事の対価をお金で支払う。
パン屋に物乞いに行く者はパンとお金を交換するのではなく、「みすぼらしい自分にはパンが与えられる」と当然に思いパンをもらいに行くのだ。
乞食はその「パン」が持っている手間と時間を知らず、「出来上がったパン」は空いた腹を埋めるためのものとしか認知していないだろうから、腹が空けばまた「パン」を乞いにいくのだろう。腹が空けばパンをもらえばいい。その行動に相手に対する「報い」はない。乞食行為で得続けているのだから「このご恩はいつか必ず」そんな気持ちは微塵もないのだ。
乞食はここのパン屋でパンがもらえなければ他のパン屋に行けばいい。自分はかわいそうな人間なのだから誰かが恵み与えて当然だ。その時間を使いひとつのパンを得る。そしてすぐ腹を空かす。
この乞食がもし「知恵」があり、パンが「小麦農家」がいて「輸送」があり「パン職人」「道具職人」「材料」「作り方」などの要素の上で出来ていることを理解していたらパンを乞うことにはならないだろう。
自分でパンを得る方法を選べるからだ。作ることもそうだ。得た知識でパン以外の食べ物にもありつけるだろう。自分の好きなものを選べるようにもなり、いくらでも手に入れられるようになるだろう。
仮にこの乞食がそのときのパン1つで命を繋ぎ、このパンがなければいまの自分はいなかったと思える人間であれば、乞食ではなくなるのだ。
この恩に報いるように努力をし、パン屋にきちんとお礼をするのだろう。
「あのときはありがとうございました。」
そう言いパンを買っていくだろう。