小説現代「なれのはて」読了
来月には新刊として発売するのがわかっているのに、待ち切れずに手に取った「小説現代」
結論としては、「買ってよかった、読めてよかった」だろうか。
思わず簡単な感想をXにポストしたくらいである。(Tweetしたっていった方が一発でどこに何したかわかるのだから、Twitterはそれだけで偉大だったなとふと思う)
表紙から印象的である。
「一枚の絵」が鍵となるのだが、こういうものなのかもしれないと想像力を掻き立ててくれる。
挿絵というのはこういうイメージを具体化させてくれる役割があるが、時折想像を邪魔することがある場合もある。
この表紙は「一枚の絵」がどのようなものだろう?こういう感じなのだろうか?と想起させるのに一役買ってくれたようだ。少なくとも私にとっては。
秋田取材レポートを読んで、なんとなくこれは一気に読みたい、多分手は止められないから、読み切るつもりで読んだ方がいいという直感が働いた。
そして、その直感は正解だった。
最初の数ページはメインとなる登場人物が出会い、そして「一枚の絵」につながっていく導入のような部分である。
少しだけここで躊躇したのは否めない。というのも、メインとなる登場人物の性格というか性質によって読み進めたいか読みたくなくなるか私にとって重要なポイントとなっているからだ。
メイン登場人物が卑屈だったり、あまりにも不思議ちゃんだったり、強引すぎたりと「すぎる」性格が付与されているとそこで読むのが息苦しくなる。
それを上手く絡め取ってくれる相方となる人がいればいいが、それすら払いのけていくような人物であると、物語に途端に入り込めなくなる。
だからと言って作品がつまらないわけではない。私の好みが合わないだけだ。
人付き合いに似ている。
我慢して読むか、距離を取るか、それだけである。
話が逸れたが、メインとなる登場人物の二人がちょっとそこに引っかかるかもと感じたのだ。
元報道部でとあることによって左遷的にイベント企画部に送られた人と少々強引に彼を巻き込もうとするイベント企画部の年下教育係的な立場に立った女性。
きっと彼がずっとイベント企画部に来たことに対して荒んだ感じで見ていたら違っただろう、彼女がずっと彼を強引に無理やり巻き込もうとしていたら違っただろう、そして、この二人が主人公だったら違っただろう。
違ったから私はページを捲る手を止められなかったのだ。
主役は「一枚の絵」だった。
その絵が登場してからは彼らの人物像の印象が変わった。多分それは焦点が変わったからだろう。薄まったのだ。
いや、薄まっているわけではない。
ただ、その「一枚の絵」が出てきたことにより、彼らの人物像がより身近になって「生きている」と感じられるようになった。
そのことによって、「後ろ向き」「強引」「荒んでいる」「自分勝手」というレッテルが徐々に「そうならざるを得ない状況」を生きてきたことを知ることになるのだ。
「一枚の絵」によって紡がれる物語である。
主人公はこの「一枚の絵」であり、そして、その物語を生きている彼らであり、生きていた彼らである。
不思議な感覚が湧き上がる。
没頭するというのが正しいのだろうか。
物語に入ると、自分を登場人物の誰かに投影してしまうことがある(その投影者が「すぎる」性質を持ち合わせた時に、拒絶が出るのかもしれない)
しかし、この作品は俯瞰して物語を追っているように感じた。
さながら映画を見ているようである。
それはあながち間違っていない。
どこか少し色彩を抑えた現代の映像とざらざらと画素数が低いセピアがかったような過去の映像。
冬の場面もあるというのに、どこか生ぬるいというか湿度の高いまとわりつくような粘度を感じる空気感。
「ぬらぬらとした」と著者であるシゲは言っていたが、そう、そんな感じの。
映画は休憩が基本ない。
この作品も、章立てはあるが、私にとっては映画のようなもので、現代と過去が入り混じるその区切りが一瞬砂嵐のようなノイズが入るだけで映像が変わるだけなので、休憩を挟む余地がなかった。
ネタバレはしないでおく。
小説現代が出た後も校正をしていたようで、「ここは出版された時に変わっているのだろうか?」と感じるところもあったし。
ミステリであるから、どこから謎の答えがこぼれてしまうかもわからないし。
個人的には久々に好きな空気感のミステリを満喫したという感じだ。
作品が持つ空気感というのは大切で、シゲは「爽やかになりすぎないように」と意識したという。
爽やかさはない作品ではあるが、爽やかさを感じる。
内容だけを羅列すれば悲壮であり凄惨であるだろう。
しかし、そこに流れる空気はどことなく澄んでいて静謐である。
それは彼の持つ雰囲気なのだろうと感じた。
人の業と祈り。愛と執着。
相反するようでそれは清濁併せ持つだけの話。
表裏一体で人をなすもの。
生と死は別物ではない。
過去と現在そして未来へと続く話であり、約束の結実となる帰結には希望がある。
過去に力を与えるのは今を生きる人であり、過去の力を振り切るのも今を生きる人である。
良いものを読んだ。
それは学びになるとかそういうものではなく、エンタメとして心を満たしてくれるものであったということだ。
著者加藤シゲアキが作家としてだけでなくアイドルNEWSとして生きているからこだわるのだろうエンタメの世界。
アイドルのキラキラとしたものではないが、心躍るのとはまた違う心を満たすエンタメを感じるものだった。
そうそう、この物語の鍵ともなる「土崎空襲」のレポートを読んでいて思い出したことがある。
土崎空襲は昭和20年8月14日夜間から15日の未明にかけて受けた空襲であり、日本最後の空襲と言われている。
これでふと思い出したことがある。
中学が戦争教育に力を入れたところで、修学旅行は広島と京都という学校だった。
その中で、「最後の空襲」という言葉を聞いたことがあることを思い出したのだ。
やはり8月15日未明に起こった空襲だった。
それを課外授業か何かで、資料館に行って短編アニメーションで見た記憶が呼び起こされた。
調べたところ「埼玉平和資料館」で「最後の空襲」という「熊谷空襲」の話だったことに行き着いた。
「終戦があと一日早ければ」という言葉にどこに怒りをぶつければいいのかわからない無念を感じる。
たった一日。その一日が人生を左右してしまうことがある。
おそらく、敵国もわかっていただろう。
明日ポツダム宣言に調印するのだということは。
それでも行われた空襲に、深い憤りを感じるのは仕方ないことだと思う。
当時、学ぶほどに目を背けたくなった戦争学習だが、必要なことだったのだろう。
知れば知るほど、今の平和な時代でよかったと思うのだ。
もちろん色々ある。それはどの時代を生きていてもそうだろう。
人間とは結局、何があっても不平不満を感じるものだのだろうから。
でも、なすすべもなくただ命を搾取される時代でなくてよかったと思うのだ。
「なれのはて」発売日まで1ヶ月を切った。
完成された本を再び手に取れる日が楽しみである。