「みんなちがってみんないい」:「みんなちがったほうがいい」=ダイバーシティ:インクルージョン?
私は今、ダイバーシティ&インクルージョンをメインテーマとしているNPO法人GEWELをはじめ、さまざまなところでD&Iを学んでいます。
自分は物事を視覚的に捉えるタイプだと思っているので、ダイバーシティとは、インクルーシブとは、という定義づけをいろいろな言葉や絵に置き換えて視覚的なものに転換するようにしています。
今回はそんななかふと思いついた、一考察です。
桜丘中学元校長の西郷孝彦先生。
西郷先生の講演会の時によく出てくる、「みんなちがったほうがいい」。
この言葉を聞くと、大正末期から昭和にかけて活躍した童謡詩人、金子みすゞの「みんなちがってみんないい」というフレーズが頭の中に浮かんできました。
二つの言葉はとても似ているのようで違うのではないかと思い、ある仮説をたててみました。
「私と小鳥と鈴と」---金子みすゞ
まずは、「みんなちがってみんないい」というフレーズで有名な「私と小鳥と鈴と」の全文を掲載します。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
この作品は「私」を起点としています。
「私」は、小鳥のように空を飛んだり、鈴のようにきれいな音色を出すことはできないかもしれないけれど、大地を走ったり歌を歌ったりすることはできる。
だから、自分は自分として、他人は他人としてお互いのありのままの姿を受け入れましょう、という解釈です(こちらは私の個人的見解です)。
「みんなちがったほうがいい」
元桜丘中学の校長先生、西郷孝彦先生。
ご在任中は、安心・安全を担保できる空間づくりを意識した学校作りをされていました。
4つの「廃止」→ 校則、チャイム、テスト、宿題
6つの「自由」→ 服装・髪型、スマホ・タブレット、登校、廊下での学習、授業中寝る、授業への批判(つまらないと言う)
3つの「大切」→ 礼儀を大切にする、出会いを大切にする、自分を大切にする
※4つの「廃止」、6つの「自由」、3つの「大切」は執筆者がわかりやすく言い換えたものです。
4つの「廃止」と6つの「自由」で、学校という場が安心・安全な場所であるということを示しています。
そこに、3つの「大切」を提示することで、生徒の人格形成をアシストしています。
先生は壇上に立って腰に手をあて指さし指導をする、という姿はは見えてきません。あくまで先生というポジションは、ルール・マニュアルに縛られない空間を用意し、生徒が自身で考える力を根気よく見守り続け、新たな気づきを得られるよう促す存在です。
「みんなちがってみんないい」と「みんなちがったほうがいい」の違い
「みんなちがってみんないい」は共存を意味するダイバーシティの状態に似ています。
「私」という存在にベクトルは向いているけれど、他の存在を現象として遠くから眺めているだけ。一か所集められているもののに点と点でそれぞれが存在しています。
これは、「ありのまま」の姿を受け止めているだけの状態といえるでしょう。
対して、「みんなちがったほうがいい」は包摂を意味するインクルージョン。
「私」という存在にベクトルが向いているところまでは同じですが、ただ眺めている状態というよりは、自分に対し、周りの存在や背景を全て含んでおり、将来的にはそこに動きが生じることを予感させるようなイメージを含んでいるのではないかと思います。
「ありのまま」というよりは「あるがまま」の方が近いのではないのでしょうか。
インクルージョンのその先
ベクトルが自分だけでなくその背景や周りのもの・人・現象を少しずつ、でも着実に巻き込んだ先には革新的なものが作り上げられると思います。
身近でわかりやすいものに例えるとジグソーパズルといったところでしょうか。
ひとつひとつの凸凹したパーツを、時間をかけて少しずつ少しずつ組み合わせて一つの大きな作品を作り上げる。
「みんなちがったほうがいい」と、一つ一つは少しずつ違うけれども特長のある人たちがそれぞれを認め合って時間をかけてゆっくりゆっくり協力し合い革命を起こす。
素敵ですよね。
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