見出し画像

「踏み絵」の感触 映画『人狼 JIN-ROH』が気づかせたもの


昔好きだった映画を、改めて見直してみる。
たいていは「こんなもんだっけ?」と、当時の感動に浸ることは難しく、凡庸な印象に落胆することも少なくない。ところが、当時見た以上に、今の自分にシンクロしてしまう映画も稀にある。
そんな作品のひとつに2000年に劇場公開されたアニメーション映画『人狼 JIN-ROH』(監督:沖浦啓之)がある。

この映画は、押井守原作による「犬狼伝説」の映画化として、「赤ずきん」と「狼」の物語として、Production I.Gが手掛けた最後の手書きセルアニメーション劇場作品としても知られている。
だが、劇場公開から二十年の時を経た現在、「人狼」といえば、カードゲームや関連作品を想起するのが当前で、この重く暗い映画を思い出す人など一部の関係者かマニア以外いないだろう。

そんな忘れられたような映画を再び観た印象は、当時空席の多い映画館で一人で観たとき以上に、今の僕の心に響き、忘れていた感触に気づかされたということだ。



「あの決定的な敗戦から十数年……」というナレーションから始まるこの映画は、第二次世界大戦において中枢国が勝利を収め、日本はドイツに占領されながら、敗戦の痛手から抜け出し始めた架空の「戦後」を舞台に設定されている。
そこには、路面電車が走り、名も知れぬ職人達が作り上げた陰影と触感が残る低い町並みが連なる、昭和30年代日本に似た世界が描かれている。
首都の治安を維持し、首都警察の中核を担う武装集団=特機隊の前衛隊員としての伏一樹を通じて、この物語は描かれていく。

彼の役割は、地下道を使って破壊活動を行うセクトを発見し、それを阻止することだ。ところが彼は、投擲爆弾を運搬する一人の少女を目の前にして撃つことが出来ず、目の前で自爆させてしまう。
彼が「撃てなかった」理由は描かれていないが、彼自身に「わだかまり」を残し、その事実は特機隊のウイークポイントとして、特機隊壊滅を目論む公安部に付け入る隙を与えてしまう。



伏の目の前で自爆した少女と同じく、セクトの爆弾運搬係、通称「赤ずきん」だった雨宮圭は、捉えられ「考えることに疲れて」公安部の手先となり、その指示通りに自爆した少女の姉と偽って、伏との密会を重ねる。

最初は演技だったかもしれないが、きっかけはどうであれ、若い二人が時を重ねる度、お互いの境界が溶けていく。それなのに「言えない」ことを抱えている。それを口に出せば二人の関係が壊れることは判っている。だからこそただ黙って肩を寄せ合う。
公安部と共にいる圭の写真から、彼女の裏切りを知る伏も、それを承知の上で密会を重ねる。

物語は、特機隊を潰すための生贄に選んだはずの伏が、実は特機隊の中でも精鋭「人狼」のメンバーであり、公安部が仕掛けた罠を彼が退け、逆に追い詰め掃討する姿を描いて山場を迎える。



多くの障害をその実力をもって排してきた伏だが、そんな彼でも、自爆する少女を撃つことができなかったという点において、今だ「わだかまり」を払拭できた訳ではない。
そんな彼を「獣としてしか生きられない男」と指摘する教官は、伏に「人」を捨て「獣」になるための引導を渡す。
それは「撃てないこと」によって芽生えた、「人」=伏一樹を棄てるための最後の手段。
伏を人たらしめ、上塗りをした雨宮圭を、彼自身に「始末」させることだった。

「そして……狼は、赤ずきんを食べた。」

特機隊という組織のかりそめの延命を計るべく、それでも、彼らを生贄にしようとした公安部に対して、けん制し続ける為という「理屈」によって彼女は殺される。
それを伏自身が行うことこそ「群れ」 が、伏に求めた「踏み絵」だった。



「群れ」の存続のために、大切な人に自ら手を下すという、なんとも後味の悪い結末は、2020年を生きる僕たちから見れば、信じられない選択に思える。何より、自分が大切に感じているものを、自らの手にかけることなど共感もできないし、そんなことをする筈はないと。

実は、僕も、そう考えていた。

だが、この映画を観直しているとき気づいてしまったのだ。
伏が群れにとどまるために、自らの手で大切なものに手をかけるという行為は、「群れ」の中の一員として、僕自身が「群れ」のやり方に合わせていくことを重ねるたびに、失っていった僕自身の似姿でもあったのだ。「群れ」のやり方に合わせて生き延びるていくことが、大切なものを殺し続けることと同義だったのだ、ということに。
すでに「踏み絵」は踏まれていたのだ。自分自身の意思によって、何度も何度も。



特機隊のような特殊な集団ではなくとも、現在を生きる僕たちもまた、会社や学校、より小さなコミニュティも含めて、さまざまな集団=「群れ」の中に身を置いている。
そして「群れ」は規範を維持するため、様々な制約を課すようになっていく。言葉遣いや、衣装、行動などの約束事に至るまで、有形無形の「規範」を所属する人々に求める。
そうした規範を守ることはその「群れ」に身を置くための「踏み絵」として、日々、生活の中に横たわっている。

それを踏みながら生きることは、生活の糧を得るため、大きな事を成し得るために、ある程度は必要なことかもしれない。
だが、それを無意識に踏み続けているうちに、以前は確かにあったはずの大切な「何か」は薄まり、次第にそんなものがあったことさえ思い出せなくなる。
そして「群れ」の中に埋没し、「群れ」の中でしか生きられなくなっていく。



この映画を見て、自ら大切なものを踏みにじる彼らの苦悶の表情や叫びに、少しでも共鳴し、自分の内側にある、柔らかい部分をえぐりだされるように感じたとすれば、それは自分自身が踏み続けている「踏み絵」の感触を、思い起こされるからなのかもしれない。
そんなことに気づかされるこの映画は、日々「群れ」の中でを生きる者にとって、とても厄介な映画であるように思える。

少なくとも、僕にとっては、そんな映画だった。(了)

『人狼 JIN-ROH』
 2000年6月3日劇場公開、日本のアニメーション映画
 原作・脚本:押井守
 監督・絵コンテ:沖浦啓之
 キャラクターデザイン:沖浦啓之、西尾鉄也
 美術監督:小倉宏昌
 音楽:溝口肇
 アニメーション制作プロダクション:Production I.G

*この文章は、2000年『酷評通信1999/2000』に掲載したものベースに、2020年PLANETS School課題用に加筆・編集したものです。

いいなと思ったら応援しよう!