体罰がダメな理由を自分も説明してみます
以前、キングコング西野さんが「体罰がダメな理由を説明します」
というタイトルでブログをアップされました。
それを読んで自分も感じてることがあったのでnoteで便乗してみたいと思います。
キングコング西野さんも尊敬されているロザンの菅さんが書かれた著書 「身の丈にあった勉強法」のクダリの中に「やらされる行為」と「自らやる行為」について触れられていて、その二つはおなじ "やる" でもまったく違うのではないか、とその中で言われています。
これはほんとにまったく同感で、自分も普段とても意識しているつもりです。
自分の言い方だと、「他人から借りたCDより、自分で買ったCD」です。
やっぱり他人から勧められて借りたCDより、自分で見つけて買ったCDの方が、好きになるし愛着がわきやすい。そこには「自分で発見した」という "自らやる" 側の行為になっているからだと思っています。
なので、
自分が例えば友達に共有したいバンドがあったとしても、自分からその友達に、「これめっちゃええから聴いてみて」とCDを貸すという手段をあえて選ばないときがあります。
じゃ〜例えばどうするかというと、家に遊びに来たりとか、一緒に車に乗る機会なんかのときに、自然とその曲をかけときます。
そのときに、その友達が「この曲めっちゃええやん、だれ?」って聞いてきたら理想のシチュエーションです。もっというとたまたま一緒にお茶してたら、その店のBGMでその曲がかかったら理想です。
なぜか?
相手にも自分で手に取って欲しいからです。「自らやる行為」でゲットして欲しいからです。
自分で見つけたバンド、「自らやる行為」によって得た感動なりを、ある程度まで同じ思いで共有したい場合、相手を「やらされる行為」側にもっていってしまうと、そこにギャップが生まれて同じ次元で楽しめなくなる、と考えるからです。
自分が好きなバンドの魅力を、相手が知らないうちに自分から伝えてしまうのは、ある意味、相手の「自らやる行為」を奪いとる行為、とも考えられます。
相手が好きになる可能性を奪っているのです。
「このバンドは教えてもらったから好きになったのではなく、あくまで自分で良いと思ったから好きなんです」という "自分で手に取った感" が必要なのです。
そして、たいがい、人は「やらされる」ことは嫌いではないでしょうか。
その中で、
「体罰」というのは、西野さんとしては「双方合意」ということを仰っていますが、とはいえ「やらされる行為」に相手をおいやることの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。
自分も子育てをしていてヒヤッとすることがあります。その瞬間自分では子供を思ってしかっているつもりが、実はただ自分を満たしているだけだったのではないだろうか、と。
おそらく「体罰」って、超クールにやる人はあまりいなくて(もちろん絶妙に使い分けていらっしゃる方もいますが)、どちらかというと "カッ" となってやってしまった。冷静さを失ってしまっていた。ということの方が多いのではないでしょうか。
そのときって、相手のことを思ってその行為に及んでるのでなく、自分のそのカッとなった感情を満たしているだけなのではないでしょうか。はけ口としてしまっているだけなのではないでしょうか。
だし、
そもそも、もはやカッとなった体罰は「思考停止」だと思うのです。そして、ある意味一番安易で楽な手段だと思うからです。相手にこうなって欲しいから、こうさせる、こう強いる、だから殴る、しばく、というのは、うん、やっぱりどちらかちうと「アホ」だと思っています。
もはやそれでうまくいったとしても、指導者の力量ではなく、指導される側が元々優れていた説、ではないでしょうか。
ちなみに、
自分もやらされることがめちゃくちゃ嫌いですし、とても苦手です。
そんな自分が少しでも「自らやる行為」に持っていくためにやっていることは、ホリエモンのいう、まず "情報のシャワーを浴びる" です。
どういうことかというと、
例えばお勤めの方なんかで、外部研修で「ロジカルシンキング」や「シナリオプランニング」を学習させられる、なんて機会があると思います。
このときに、まったくこの2つのことを知らないと、ただただ「やらされる行為」になってしまうかもしれませんが、普段から情報のシャワーを浴び、少しでもそれらの情報をインプットしておくと、「いやいや、おれこれ知ってるし、もともとちょっと興味あったし」なんていって、「自らやる行為」に置き換えることができるからです(少々強引かもですが・・・)
とにかく、やっぱり色々なことに興味を持っておく、なんなら学んでおく。これらは「自らやる行為」に繋がる行為だと思います。
それもやらずに目の前のことだけをやってしまっている人は、結局自分の仕事に愚痴をこぼし、給料に不満を抱え、でも何も学ばないから、いつまでたっても「やらされる行為」側、という負の連鎖の中を抜けられません。
時代に関係なく、思考停止した体罰は無くなって欲しい、と願っています。