どぶろく祭り(長野県茅野市本町)
訪問日 2024(令和6)年4月27日(土)
本町の「どぶろく祭」は、八ヶ岳の麓に狩りをしにきた建御名方命(諏訪社御祭神)を母神の高志奴奈川姫がどぶろくと鹿肉とウドでもてなしたことにちなんで、毎年4月27日、鹿肉とウドの粕和えをつまみに当番の氏子が醸したどぶろくで氏子衆や区民が宴会をするという祭り(ざっくり)である。
古くは「矢崎祭」「独活祭」と呼ばれていた。
が、このお祭りはそれだけではなかった。
そこには諏訪信仰の深いヤバい沼が待ち受けていた…
御座石(ございし)神社
茅野市本町、江戸時代までは矢ヶ崎村と呼ばれていた上川右岸と永明寺山塊の挟まれた地区の鎮守である。
この一帯、茅野断層の東の崖上に広がる緩やかな傾斜を持ち、弥生時代の比較的大きな集落跡や水路の痕跡、そして剣や玉などの副葬品の出土を伴う古墳も点在する。どうやらある程度の権力者がいた様子がある。
御座石神社の周辺は「鬼場」と呼ばれており、その呼び名は「御贄場」の転化ではないかという説もあるがわかっていない。
上川と柳川の合流点に近く、両岸に丘陵が迫る。
いわゆる「山浦」と呼ばれる北山・湖東・米沢・豊平・玉川・泉野などの八ヶ岳山麓地域への要衝とも言える地形にもなっている。
中世の山城「鬼橋城」の直下であり、「土佐屋敷」という小字名も残り、城下集落があったことも推定されている。
なお、過去の発掘調査では縄文〜現代までの異物が確認されているが、撹乱されており全貌が明らかではない。
社殿内の扁額には「御坐石」と表記されている。
創建年代は定かではなく、祭神は諏訪社の祭神・建御名方命の母神、高志奴奈川姫命である。
嘉禎三年(1237年)のものといわれる文書に「矢ヶ崎鎮守」と表されるのは御座石神社であると思われる。
「御祭神が女神であるので御柱を建てず、代わりに二之鳥居を新調する」というのがこのお宮の慣わしで、御柱年には曳行してきた丸太で鳥居を組み、笠木の上に氏子を鈴なりに乗せて建てるという妙技を繰り出している。
もともとは「御在所」「御最所」「御齊所」などと呼ばれ、いつの時代からか「御座石」と呼ばれるようになった。
境内には謂れのある大石がいくつもある。
まず一の鳥居向かって左に「御履石」、社殿左に「穂掛石」。
そして高志奴奈川姫がこの地にやってきた時に乗ってきた鹿の足跡がついているという石(境内案内板によると現在はこれを「御坐石」としている)が拝殿前にある。
そして境内の東隅には「八櫛(やくし)社」
かつては薬師堂があったというが、神仏判然令の折に紆余曲折の末「神」として祀ることで境内に鎮座となったという。
神長官守矢家5代目「八櫛ノ神」との関連について、境内に解説等はなかった。
どぶろく造り
前年の祭りの際に神前でくじ引きが行われ、現在は3名の氏子が「どぶろく当番」に選ばれる。不測の事態のために補欠も3名選ばれる。
昭和42年までは当番は1名であったという。
この当番のことをかつては「鹿主(かぬし)」と呼んだ。
過去、当番はどぶろく造りのことだけでなく、神饌や直会の準備、用具の調達等賄わなければならなかった。万が一、どぶろくが出来損なえば、購入してでも用意をしなければならなかったという。
そして醸造蔵が大正14年に境内にできるまでは、仕込み桶などの道具を当番宅に持ち込んで醸造していたのだという。
当番には2回なることはなく、誰もが前回の経験もってのぞむということがない。
どぶろく造りは「秘法」とされ、前年の当番の申し送りとそれまでの実績帳を方針とし醸造していた。
昭和41年からは清酒造りの手法を取り入れ、昭和52年からはステンレスタンクを導入、現在では市内の酒造の指導を得ながら、工程も途中まで酒造の設備で仕込み醸造しているため失敗がなく、味はおおむね安定したという。
それまでは、どぶろくのお味はこのようであったらしい。
「酸度8」!
読んだだけで身震いしそうな味を想像する。
祭りはかつて旧暦で行われていたというが、それは初夏の季節である。
酒造りに適するとは言い難い。
祭りの7日ほど前から作り始めていたようだが、さぞ失敗も多かったのではなかろうか。
「どぶろく」であるかどうかは判然としないが、御座石神社に受け継がれる文書には酒造りの当番の名前が記録されたものがある。
最も古いもので寛文年間であるという。
少なくとも江戸時代前期には確実に酒造りをしていたことがうかがえる。
ちなみにこの御座石神社は日本国の法律にしたがって、酒造免許を持っている。
取得は大正14年、醸造蔵ができた年である。
どぶろくが出来上がると、諏訪税務署がやってきて酒税法に基づくチェックを受ける。
神事に使う酒を神社境内で作る例は珍しいのだという。
現在のどぶろく祭り
前年の祭りのくじ引きでどぶろく当番に選ばれた(おそらく事前の調整はあるのだと思うが)氏子3名は、今年は3月23日に仕込みを開始したという。
醸造量は許可を受けている最大量の1600ℓ、コロナ禍で縮小していた祭りを元の規模に戻しての開催である。
当日、朝から境内は祭りの準備で大忙しである。
9:30、鹿肉を煮るための火を起こす「火切神事」をおこなう。
火の起こし方は、神酒造りの神事を持つ出雲大社と同じ方法とっているのだという。(もっとも出雲大社は清酒を作っているのだが)
もともとおなじなのか、どこかの時点で導入されたのかは不明である。
火切臼(檜の板)と火切杵(3年生の卯木と決まっている)で火を取り、河原石で組んだしばがまへ移す。
そしてしばがまに鍋をかけ、鹿肉を煮る。
そしてウド。
かつて旧暦で行われていた(現在の6月上旬あたり)の祭りのため、現在の暦ではウドの確保が難しい。
県外産を購入し、調理している。
粕和え(必須)と炒め煮の2種類が今年は用意される。
境内での準備と並行し、社殿では来年のどぶろく当番を選ぶ神事がおこなわれる。
当番を3名、補欠を3名選出する。
神職がくじを引き、今年の当番に手渡して、列席者で確認をする。
準備が整ったところで、どぶろくの奉納をおこなう。
御座石神社、そして塚原地籍にある大歳神社と犬射原神社へ納めにいく。
かつてはどぶろく桶、鹿肉とウドの粕和えを入れた櫃を担いで徒歩で奉納していたが、現代は自動車で移動する。
大歳神社で準備をしていた役員が、杉の葉に火をつける。
もうもうと煙が上がる。
これは「饗膳の準備ができた」という合図で、古くはこの狼煙を見て前宮から大祝一行がやってきたという。
現代には大祝がいないので、諏訪大社から神官が参向する。
まずは御座石神社から鉄馬(自動車)にのった奉納一行がどぶろく、鹿肉とウドの粕和えを大歳神社に運び入れる。
続いて、諏訪大社から参向の神官がやはり鉄馬にて到着。
『諏訪大明神繪詞』によれば、この後、大祝と共に盾を並べて儀式をし饗膳ということになるが、現代ではお神酒の振る舞いと持ち帰りの折詰が用意されていた。
そして一行は駅を挟んで東側の犬射原社へ移動する。
今でこそ茅野駅と周辺は商業地で建物がぎっしり立ち並ぶ市街地であるが、1905(明治38)年に鉄道が通るまでは家の数も少なく田んぼや畑が広がり、その中にぽつんと犬射原社の石祠があったという。
前出した『諏訪大明神繪詞』には「犬追物」と書かれており、ここでは武芸の披露が行われたものと考えられている。
『諏訪大明神繪詞』によると、この後大祝一行は「御齊所宮に詣ず」となる。
つまり御座石神社に向かうのである。
午後からおこなわれる本祭には、諏訪大社から宮司が参向する。
正式な招待客として宴席も用意される。
本祭が厳粛に行われ、五穀豊穣、区内安全の祈願。
かつての祭りの姿を探る
中世の古文書から祭りの様子を伺うことができる。
「嘉禎神事事書」が1238(嘉禎4)年、「諏訪大明神繪詞」が1356(延文元)年である。
100年以上の開きがあるが、祭りの際に3カ所(大年社、犬追物≒犬射原社、御座石社)を回るというところは同じである。
祭りの内容は「諏訪大明神繪詞」の方が詳しく記される。
ざっくり訳すと「饗膳の支度の整った合図の狼煙を見て、大祝一行は大年社へ。そして仮屋に着座し、楯を並べて戦いのための儀式をする。酒を飲んだ後、同じメンバーで犬追物をし、御座石へ。同じように座って神事を行い、饗膳を終えた後に大草(ススキだという)を取り、五月会参詣の人数を整える」といった内容である。
「五月会」は旧暦5月5日におこわれていた諏訪上社の狩猟を伴う大きな祭礼(御狩神事)のひとつである。
この「諏訪大明神繪詞」に表現によると、矢ヶ崎祭は五月会と連続している祭りのように見える。
別の文書には、祭りの様子についてもう少し詳しい記録がある。
「年内神事次第旧記」が1354(観応3)年成立という。
ひとまずは「諏訪大明神繪詞」とほぼ同時期の記録である。
こちらはより難解だ。
文中の「赤御穀」は赤米かいわゆる赤飯と考えられている。
赤飯とウズラを持って大年社に行き、犬射原社の辺りでで犬追物をしたようで、どうやら出した犬と矢の数が記録されているらしい。
御座石社の神田はみんな川に流されているという。
人と楯と馬の数がそれぞれ「八十八」と記録されるが、もしかしたら「多数」という意味にとってもいいかもしれない。これを「出陣の儀式」と解釈している研究がある。
「千野神主の参らする木之殘」が何を示しているかははっきりしないが、続く祝詞に「櫻之枝」があるので、もしかすると御座石社からほど近い「桜湛え」に関連もあるかもしれない。
そして狩猟の儀式らしき描写の祝詞が続く。
・「すはきか原」にたつ(楯かそれとも巻狩りの射手のことか)をたて
・谷状の地形に真っ直ぐ(真つ垂れ様)に降りる鹿
・弦のない弓と矢尻のない矢で千頭の鹿を捕り
この一連の祭りの様子は、もはや「酒(どぶろく)」よりも「狩猟」に重きが置かれているようである。
ここで御座石神社の立地についてもう一度振り返る。
上川と柳川の合流点に近く、北には鬼場の高台、南は八ヶ岳から続く尾根。
柳川を挟んで対岸には矢作社、そして桜湛。
上川を少し坂遡れば、埴原田の千鹿頭社。
東に蓼科山を臨み、西はきっと茅野断層の端、大歳神社あたりまで見晴らしは良かっただろう。
上田・佐久方面に向かう大門街道もここを経由する。
そして柳川より南の八ヶ岳山麓一帯は、許されたものしか狩りをすることができないという「神野」であったという。
御座石神社境内に点在する、名付けられた大石たち。
そのどれかがそうなのか、もしかしたら石は関係ないのかもしれないが、かつて「御斎所」「御坐石」は八ヶ岳山麓に入る、さらには神野へのランドマークではなかったか。
そのランドマークに捧げ物をし、この年の豊穣を願う儀式があったのではなかったか。
そして時代を経て、諏訪社祭事が最も奮った中世に、「五月会」前の神野への祈りの場として「矢ヶ崎祭」は位置付け直されたのではないだろうか。
『諏訪大明神繪詞』にあらわれる「矢ヶ崎祭」から続く「五月会」の記述はそんなことをつらつらと想像する。
下記の引用は、中世の諏訪社で3月と12月に行われていた「廿番舞」の神楽歌三番「そうりやう申(総領申)」の文言とされている。
今も残る摂末社もあらわれるこの神楽歌は、一説には前宮で行われた御室神事(現在では衰退)よりも前にそれぞれの小社で行われていたという。
この神楽歌にかつて行われていた御狩を伴う饗宴の様子を想像する描写がある。
(ざっくり意訳)
「真志野の神主にそそう神がついたので神主は喜んだが、宴会の肴にする物がない。狩りをしようと思いもう1人の神主に相談し、野焼きの場に射手をたてた。大深山(の沢?谷?)を真っ直ぐに(まんたれさまに)落ちるようにやって来た鹿を、有賀某かが真横(まんよこあい)から鹿の胸のまんなかを射って仕留めた。鹿はすぐ丸剥ぎ(まるはかし)、丸焼き(まんまるやき)に、背の皮をとって刺し焼き、折骨肉脇肉をしっかり(しゆうしゆう)に包み(ひんつつみ)、家に持ち帰った。むしろを広げて(ひんはしらかし)その上に台を立てて鹿肉を並べ、他にも鯉の煮付け、そそうり(ナマズの類だという)の寿司、蕪の八重皮(ふくさかぶらのやいかわ)、つつくしりの寿司など集めて(おんどりあつめて)、六月酒の瓶を開けてとくとく(すんかむんか、酒と注ぐ擬音)と注いだ(よそんたり)」
原文はなんとも親しみ深く楽しげでユニークな表現が多く使われていることだろう。
神を迎え、喜び、共に膳を囲んで祈る。
この時代には人と神とは今よりずっと身近だったのだという印象を持つ。
時代は移り変わり、狩猟色濃い「矢ヶ崎祭」はやがて「どぶろく祭り」と親しまれるようになり、現代では地域コミュニティをつなぎ晴れやかな笑顔が交わされる場ともなった。
しかし、祭りの端々には今も古い信仰の形が見えている。
昔の人々が奉じた神々、自然との精神的なつながり、生きとし生けるものへの畏怖と敬意、目には見えないものごとを包んで、少しずつ世の中に合わせ変わりながら祭りは次の年へと受け継がれている。
来年も再来年もこの先も長く長く、晴れやかに笑い、酒を酌み交わす人々の姿がここにありますように。
本町のみなさま、おじゃまいたしました。
ありがとうございました。