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食べることは、生きること。

◉2月14日夕刻。退院の日取りが気になって主治医に確認の連絡をいれていたところ、「実はさきほど、遠心分離機にかけていた腹水の結果がわかりました」と折り返し。「チュウヒ細胞というのが出まして・・・」。ん?チュウ、ヒ??耳慣れない言葉に戸惑いつつ、ググってみる。中皮細胞、中皮腫、アスベスト被害、想像もしなかったワードの連続に混乱しつつも、いろいろと検索して、ぼんやりと把握。

とりあえず、病院へ。向かう道中、さらにリサーチし、母の一連の症状と照らし合わせてみると、どうやら「腹膜中皮腫」であるようだ。予後不良。胸膜の場合はもう少し希望があるらしい。腹膜タイプでも抗がん剤もなくはないが、11年前に使ったものと同類のもので、さらに強い作用のあるものになるらしい。抗がん剤の副作用に悩まされ、もう次に何かあっても抗がん剤は使いたくないと言い続けてきた母。抗がん剤が効きにくいタイプであるというならなおのこと、使うという選択肢は考え難い。


ドクターに時間をいただき、詳しい説明を聞く。事前に調べて推測した内容と、大きく違いはなかった。ただ、「病名を確定させるためには、腹腔鏡検査が必要で」とドクター。この後に及んで、まだ検査?「腹腔鏡手術は他のものと比べるとリスクが少ないとはいえ、ゼロではありませんよね?根治できない、延命も大きくは望めない、私たち母娘のなかでは治療という選択肢を考えにくい状況です。そんななかでも、その検査、必要でしょうか?って・・・なんか、すみません(苦笑)」。我ながら、扱いにくい患者家族であるかもなと苦笑しつつ、母の苦痛を最小限にすることが今の私にできることだと心に決めて、話を進める。

父を看取りに際しての、母の後悔のこと。CT検査の結果がわかった直後、エンディングへ向けた意向を聴き取ったこと。最近の食欲を見ていると、末期になれば胃や腸の機能も日に日に失われていくというこの病の進行の表れではないかと感じていること。残された時間があと半年、あと数ヶ月もないとすれば、今の母には「治療」ではなく、「緩和ケア」への移行が望ましいのではないかと感じていること。そんなことを一気に伝えた。

「お母様は以前から、QOLを大切にしたいと言っていらっしゃいましたよね。であれば、動ける今のうちに、一日でも早く家に帰った方がいいでしょう。腹水は一度は抜いたとはいえ、また日に日にたまっていくでしょうから」とドクター。「正しい病名は知りたいが、期限は知りたくない」という母の意向を伝えた上で、母へ告知をしてもらうことにした。


中皮腫のなかでも治り難いものであるということ。抗がん剤を使うこともできるが、効果は絶対ではないということ。そうしたことを踏まえた上で、「治療」と「緩和」の選択肢を示す。余命の言及はなかったものの、治らない病であるという事実に、母もさすがに落ち込んだ様子だった。「最期はできるだけ自然に」しぼりだすようにつぶやいた母。喉の奥が、ギュッとした。

「不安や痛みを感じないで済むように、緩和ケア病棟のある病院を探そうね。その前に一回、家に帰ろうか。帰るなら、腹水の少ない今の方が、移動のつらさは少ないみたい」。

急遽、翌朝退院することになった。


◉2月15日、退院。1週間前、歩いて入院した母は、車椅子になっていた。ひとつひとつの変化にとらわれていても仕方がないので、少しでも気分が変わるようお気に入りの服を着て、院内の美容室へ。ヘアカットをし、シャンプーをし、ブローしてもらい。母の表情は久しぶりに華やいでいた。

途中、休憩しながらの移動で、自宅に着いたのは3時間半後。夕方から、嘔吐と下痢の症状が出る。病院の指示を仰ぐと、「昨日まで使っていた抗生物質の副作用もあると思うので、処方している整腸剤で様子を見てください。何かあれば病院で受け入れができるよう、手配しておきます」とのこと。ようやく落ち着き、母の寝息が聞こえてきたのは深夜1時を過ぎていた。

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◉2月16日、今朝は久しぶりの家ごはん。「おにぎりが食べたいな」と言ったので、大江の松本さんの「小さな海」の釜炊き塩で握ったミニ塩むすびと、牛深の出汁をきかせたお味噌汁にしてみる。おむすびを一口ほおばり、お味噌汁を一口すすり、「あーおいしい」としみじみつぶやく母を見て、食べることは生きることなのだとつくづくと。天草の滋味めしはいつだって、生きる力をくれるのだ。


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