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本当に「無宗教」な人などいるのか① 

大学での卒論が忙しく、なかなか更新できないのが申し訳ないです。

私は大学では仏教を専門にしているわけではありませんので、自分で本などを読んで勉強していますが、花園大学文学部の教授・仏教学者でいらっしゃる佐々木閑先生の本にはいつもお世話になっています。

先日、佐々木先生の『宗教の本性 誰が「私」を救うのか』(NHK出版新書、2021年)を読んだのですが、ここから学ぶことは多く、より多くの人にその内容を知ってもらいたいと思いました。しかし、全部内容を紹介するわけにもいかないので、大事な部分だけ紹介します。

タイトルを「本当に無宗教な人などいるのか」としましたが、そもそも「宗教って何?」と聞かれても簡単には答えられませんよね。これは専門家の方でも難しいと思います。
そこで佐々木先生は、これについて考えるには「主観的視点」と「客観的視点」の二つが必要になるといいます。そして、この本の前半では適宜ユヴァル・ノア・ハラリさん(イスラエルの歴史学者)の『サピエンス全史』を引用しつつ、この「客観的視点」について述べられています。ここでいう「客観的視点」というのは、言い換えるなら「学術的アプローチ」というのに近いと思います。つまり、人類の歴史を振り返ったときに宗教がいつごろ生まれてきたのか、世界にはどんな宗教があり、教義にはどんな特徴があるのかなど、ニュートラルな視点で整理していくことをいいます。
『サピエンス全史』は歴史に興味がなくても名前を聞いたことはあるという人が多いのではないでしょうか。この本は先史時代から現代にいたるまでの人類の文明の歴史を記した名著です。その中で、宗教についても詳しく分析されています。

『サピエンス全史』が示す宗教の定義


まず、ハラリさんは、「宗教」の定義を明確にしています。それは、

「超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度」

です。この定義を佐々木先生は素晴らしいと評価しています。ポイントは、「超人間的な秩序」は何かということです。「神」や「仏」というのはすぐにイメージできると思いますし、「宗教」と聞いて「神のように偉大な存在を崇拝する教え」と考える人は多いのではないでしょうか。

しかし、現実にはそうではない宗教も数多くあるのです。
例えば、原始仏教(釈尊のころの教え)は、神や仏を崇拝するという教えではありません。そうではなく、釈尊がみつけた「自然法則」、具体的には人間の努力ではどうすることもできない「諸行無常」や「諸法無我」といった事実を受け入れ智慧を磨き、スピリチュアルな力に頼らず自分で自分の心の苦しみを手放していくことを目指すものです。
もしも宗教の定義が、「超人間的な存在への信奉に基づくもの」とされていたら、神や仏への崇拝を説かない原始仏教は宗教の枠には入らなくなります。ただ、ハラリさんの定義では「超人間的な秩序」への信奉となっていますね。それにより、人間の努力ではどうすることもできない「超人間的な秩序」(仏教では諸行無常など)を信じ、それを踏まえて自分の生き方を律していくことを目指すという点で、神を信じていなくても原始仏教は宗教の枠に入ります。

なお、「超人間的な秩序」というのが少しわかりにくいので、私なりに補足を考えました。これは、「人間の頭では理解できるけど、ほかの動物には理解できないこと」だと思います。神社や仏像を人間のように拝む動物は見たことがありません。また、動物も自然現象は感知できるはずですが、そこから「諸行無常」のような法則を意識することはないと思います。

現代もまた「宗教の時代」


それでは、ここで示された宗教の定義から私たちは何を学べるでしょうか。

それは、「宗教の時代」は決して終わっていないということです。そしてこのことは、『宗教の本性』の中で佐々木先生が最も主張したかったことだと私は思います。

「いやいや、日本国憲法では政教分離を定めているし、そういう国はほかにもある。もはや宗教が社会を支配するような力を持つことはない」と反論されるかもしれません。また、日本の場合は特に、「自分は特定の宗教に属していないし、宗教を規範に生きていない」と思っている方も多いのではないでしょうか。

たしかに、宗教を一般にイメージされるような、「~教」と名前がつくものに限定するなら、「無宗教」の人もいるのかもしれません。

しかし、先ほど述べたハラリさんの定義を思い出してください。宗教とは、「超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度」とありました。ハラリさんの考えの面白いところは、この「超人間的な秩序」をかなり広く解釈している点です。そして、近代を「新宗教」の時代であるといいます。

これはどういうことでしょう。「新宗教」とは一般にイメージされる「新興宗教」のことではありません。『サピエンス全史』では「新宗教」として自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、、など複数の例が挙げられています。ただ、ハラリさんも指摘されているように、これらは通常イデオロギーなどとは言われても、宗教とは言われませんね。しかし、それは単なる「言葉の綾」に過ぎないのだといいます。つまり、イデオロギーも、「超人間的秩序」を信奉し、人々の規範意識・価値観に影響を与えるという意味では伝統的な宗教と変わらないというのです。その証拠に、ここで述べた「~主義」はどれも人間にしか意識できないことだと思います。犬が、「自分は日本犬だから、日本の名に恥じないような行動をしよう」とは思わないでしょう。

もちろん、これらのイデオロギー(ハラリさんによれば「新宗教」)を信じることで本人が生きがいや喜びを感じているのなら何も問題はありません。また、これらのイデオロギーでほかの人を苦しみから救うこともできるでしょう。しかし、これらのイデオロギーが世の中の人全員を幸せにするわけではないことは想像できると思います。逆に苦しみを抱いてしまう人もいるはずです。佐々木先生は『宗教の本性』の末尾でこう述べています。

「イデオロギーも宗教の一つと考えるなら、ほとんどの人は何らかの宗教を信じて生きていることになりますが、無意識でそれを信じるのと、どんなものか理解して信じるのとでは、まったく意味合いが異なります」

実際、多くの人は自分がイデオロギーにつかっていることに気付かないと思います。そして、それによって自分の苦しみの原因となっているイデオロギーの存在に気付けないということも考えられます。これは恐ろしいことだと思いませんか。
一般にイメージされる宗教であれば、まだ「~教」と名前がついていたりするので、自分は「信じている・信じていない」の区別がつきやすいかもしれませんが、資本主義のような身近なイデオロギーほど、「信じよう」と思って信じた、という経験がないため、無意識に資本主義につかったりしているはずです。
私たちは、学校で資本主義について習わなくても、欲しいもののためにお金が欲しいと思ったり、お金持ちでいること・お金を使う事が幸せなことだと考えてしまいませんか。

次回以降、主に現代の日本人と、ハラリさんの定義に基づく「新宗教」の問題について、もう少し身近な例も踏まえて考えたいと思います。







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