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身近な伝統から学ぶ 浄土真宗編2

(前回の続き)

再び浄土真宗の話をしたいと思います。
みなさんは、浄土真宗に対してどのようなイメージをお持ちでしょうか。

辞書的な説明だと、「阿弥陀如来の救いにすべてを任せ、如来のはたらきで死後極楽に往生できることを信じる宗教」といった感じになるでしょうか。

しかし、ここだけをみると、「死ぬまでは自分は救われない」とか、「来世は極楽に行けるのだから現世はどう生きてもかまわない」といった誤解を与えかねません。
浄土真宗が来世を大事にしているのは当然ですが、決して現世を軽視しているわけではないのです。
親鸞聖人の時代から、「造悪無碍(ぞうあくむげ)」という考えを説く者がいたようです。造悪無碍とは、「阿弥陀如来はどんな悪人でも救ってくれるのだから、現世でどんな悪行をしてもかまわない。むしろ、悪行をしたほうが救ってもらいやすくなる」という考えのことです。
当然、親鸞聖人はこうした考えは間違っていると断言されています。

そもそも、仏教でいう「悪」とは、「自分自身や他人を不幸にする行い」を指します。
例えば、他人の悪口を言ったとします。このとき、悪口を言われた相手が傷つくのは当たり前ですが、悪口を言ったほうも自分自身を不幸にしているのです。前回、「欲」と「現実」のギャップが苦しみを生んでいるといいました。悪口を言うということは、「(相手には)こうしてほしかった」という自分の「願望(=欲)」があったはずです。それがかなわなかったという「現実」を前にして悪口が出るのです。
悪口を言って、一時的にストレスが発散されたと感じるかもしれません。ところが、この「欲」に根差した行動を続けていると、それが当たり前になっていきます。自分の欲を優先させようとするあまり、周りからは疎んぜられるでしょう。こうなれば、自分の人生に不利益となります。これも「因果応報」の一つです。仏教が悪因悪果につながる行動を認めるはずはないのです。
余談ですが、脳科学的にも、悪口は自分自身の脳の健康を害することがわかってきています。

ところが、です。今まで一度も悪口や他人を傷つける行為をしたことがないという人間がいるでしょうか。おそらくいないでしょう。僕も何回もありますし、親鸞聖人自身も、「人間というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多く、ひまなくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」と述べておられます。
先に述べたように、浄土真宗は間違っても「欲望のままに生きていい」とか、「乱れた生き方をしてもいい」という宗教ではありません。一方、「自分のなかから欲や煩悩を完全に消し去れ」という宗教でもないのです。そうではなく、「人間は生きている以上欲・煩悩が心の中に常に存在している。それに、人間はその煩悩に流されやすい。まずは、その現実から目をそむけてはいけない」というのが浄土真宗の教えの要だと思っています。

漫画版『歎異抄をひらく』で、親鸞聖人の弟子、唯円の知り合いが強盗・殺人を犯して処刑される場面があります。ここで、唯円は聖人に、「阿弥陀仏の救いに条件はないといいますが、本当に殺人を犯すような人間でも救われるのでしょうか」と疑問を投げかけます。すると聖人は、

「(人間の行動は心から起こるから)体で犯す罪よりも心で犯す罪のほうが重い。たとえば心のなかで、あいつは死んでくれたら、と思った瞬間にそれは心で相手を殺していることになる。人間は、事の次第によっては心で親をも殺してしまうものだ。だから、(心の罪を犯さない者はないという意味で)人間はみな悪人であるし、もし殺人を犯したものが救われないというなら、この世の人間は誰も救われないことになるではないか」

と言うのです。これは大変印象的な場面で、教えの核心をついているといえます。
人間は、できることなら自分の罪過を隠し、自分をよくみせたいと願うのがふつうだと思います。ただ、この「善い自分」というものにこだわると、つい他人と自分を比較して優越感にひたったり、ちょっとした失敗でも自分を責めてしまいます(僕自身そういう経験があります)

けれど、「すべての人間は悪人である」という前提にたつなら、自分と誰かを比べて落ち込むことも、他人に対して自分を優位に見せようとすることも全て無意味となります。「善い自分」などつくり出す必要はないのです。

阿弥陀如来の本願や、極楽往生を信じるかどうかは読者のみなさん個人の信仰の問題ですので、そこに僕は踏み込むことはできません。ただ、一つだけいえることは、僕は浄土真宗の教えに出会ってかなり救われました。また、今まで述べてきた浄土真宗の深い人間洞察は、宗教の枠をこえて、一人でも多くの人に知ってもらいたいです。

最後に、まだまだ勉強不足ではありますが、現段階で僕が考える「浄土真宗に基づく生き方」をまとめたいと思います

人は、生きている限り欲や煩悩が常に心の中に存在していて、絶えることがない。まずは、その現実を認める必要がある。けれど、ひとたび阿弥陀仏の本願を信じたならば、死後極楽に往生し、仏となる身に定まる。本来煩悩だらけである自分が救われ、しかも阿弥陀仏のはたらきによって仏にならせていただくというのだから、これ以上の幸福はない(人間にとって最大の苦である死の問題を、阿弥陀仏は解決してくれるのだから)。それゆえ、阿弥陀仏に感謝するとともに、欲は心の中から完全消滅しないとしても、死後に極楽へ往生できることが決まっている以上、現世での一時的な幸・不幸に執着する必要などない。だから、欲に流されない生活を少しずつ心がけ、自分の心を清らかに保とう。
また、阿弥陀仏の救いの前では善人や悪人といった区別は一切関係ないのだから、他人と自分を比べて自分自身を責めたり、他人に対して優位になる必要はない。「善い自分」「完璧な自分」をつくり出したりする必要も全くない。だから、自分自身への執着・慢心、自他への差別心を捨てて、公平無私な態度で他人に接し、相手の幸福を願い、自他ともに心が幸せになるように一歩ずつ心がけていこう。




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