儒学と僕8 高慢にならないように(曾子の三省)
今回は、『論語』の学而編第4章について紹介します。ここは、孔子の弟子の中でも孝行に熱心だったという曾子(そうし)の言葉が記されています。
今回の言葉
この部分は、「曾子の三省」として知られる部分です。ちなみに、三省堂書店の名前の由来ともなった章であります。三省の内容としては、
1.人のために忠実に行動できたかどうか
2.友人と交流して、信義を尽くして行動できたかどうか
3.先生から教わったことを復習して体得できたかどうか
となっています。ただし、3つ目は解釈が分かれる部分です。上にあげたのは朱子学での解釈ですが、もう一つの読み方があって、「習わざるを伝(つと)うるか」と読みます。文脈的に、この三省は他人に対して自分がどう行動したかを問題にしていると思うので、僕はこの「習わざるを伝うるか」の読みで解釈したいと思います。
さて、三省の内容のうち、1つ目、2つ目は常識的考えても理解できるでしょう。人のために真心をもって接する。友人に信頼されるような行動をとる。これについてはあまり説明はいらないと思います。
問題は3つ目です。「習わざるを伝うるか」ですが、これは、「自分が知りもしないことを知っているふりをして他人に伝えなかったか」という意味になります。そしてこれは、僕も含めて私たちがやってしまいがちなことではないでしょうか。
僕は、今でもこうしたことがゼロになったと言える自信はありませんが、昔は今よりもこうしたことを多くしていたなと思います。やっぱり、人間は「知らない」と自分から言ったり、相手より知識が劣っていると思われたくないものでしょう。
相手が知らないであろう知識を教えてあげる、これ自体は何も問題ではありません。ただ、そこに「自分はこの人よりもえらい」とか、「この人はこんなことも知らないのか」といった態度を出してしまうことがいけないのです。これでは、せっかくの知識も相手を見下すための道具になってしまいます。人に見下されて気持ちいい人などいません。こうした態度をとり続けていれば、自分を頼りにしてくれる人はいなくなってしまうでしょう。
また、自分が周囲の人よりも知識面で勝っていることを示したいがために、話の勢いのまま自分がはっきりと知らないこと、本当に正しいか確信が持てないことを、さもそれについてちゃんと知っているかのようなふりをして相手に言ってしまう、なんてことはないでしょうか。僕はそうしたことが何度かありました。そして、自分が言っていたことが誤りだと相手に気付かれるとそのたびに恥ずかしく思ったものです。
なので最近は、自分が言おうとしていることが正しい知識だと確信できない時は、「~だったと思うけど、もう一回調べてみる」というような言い方をしたり、もっと自分の記憶があいまいな時は正直に「わからない」と言うように心がけています。
もっとも、何か急を要する出来事で、「わからない」と言っているひまがない時もあるでしょう。その時は、とりあえず今の自分が一番納得できることを言い、後々それが間違いだったならそれを認めればよいと考えています。間違いがあることは仕方がないですが、「朋友と交わりて信ならざるか」と言われているように、正直に自分がやったことを「認める」、これは相手と信頼関係を築く上で欠かせません。相手から間違いを責められてしまうこともあるかもしれません。しかし、嘘で取り繕う人生を生きたり、人から「嘘つき」というレッテルを貼られるほうがずっと恐ろしいと思いませんか。
ただ、以上のようなことを、完璧にやるのは正直難しいです。最初のうちはプライドが邪魔するかもしれません。しかし、僕の経験を踏まえて言うならば、別に自分を「優れた人」と相手に見せなくても、自分にとって必要な人間関係は結果的に残ります。むしろ、高慢にならないからこそ人間関係が長続きすることになるかもしれませんね。そして、もし「優れた自分」を演じるのをやめた時に離れていく人がいたなら、その人との関係は自分にとって必要のない人間関係だと思います。
曾子は優れた人物でしたが、三省の中にこうした内容が入っているということは、彼自身も知ったかぶりをしてしまうことがあったのでしょう。なので、私たちも焦らず、少しずつ高慢になってしまう心を変えていけばいいのです。もし相手を見下すような感情が起こった時は、そういう自分を責めずに、「あ、今の自分は優れた自分を演じようとしているな。そんなことをしなくたって私の価値はいつだって不動のものなのに」と心の中でつぶやいてみて下さい。人間、自分の心を自由自在に操ることは難しいですが、その心の動きに気付いてあげることはできます。そして、これをするかしないかだけでも天地の差だと思います。