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本当に「無宗教」な人などいるのか② (受験・学歴意識の問題)

前回は、「宗教」を広くとらえ、一般的には「イデオロギー」として説明される「~主義」というものも、人々に「行動の規範」を提供するという意味で、「宗教」だとする『サピエンス全史』の説を紹介しました。

ここで大事なことは、前回も述べましたが、そうした広い意味での「宗教」に、多くの人が無意識のうちにつかっているということです。まずはそのことに気付かなくてはなりません。

そこで、今回はこのことを、自分の身のまわりの問題から考えたいと思います。
僕はまだ人生経験が少ないですが、この知らず知らずの間につかっている「宗教」として、一番に思い浮かんだのが「受験・学歴」の問題です。

僕の両親は学歴のようなものにこだわる人ではなく、自分の進路について口うるさく言われたことはありませんが、実際学歴にこだわる人は世の中に多くいます。それは読者のみなさんもおわかりだろうと思います。
僕のまわりにはあまりそういう人はいませんでしたが、ネット上で見聞きしたなかには、小さいころから親に勉強を強制され泣きながら勉強し、大学受験の際には「◯◯大学のようなところに行ったら恥だ」と言われた人もいるようです。
また、高い偏差値の大学に受からなけばと思ってハードなスケジュールで勉強をし、心身の健康を崩してしまう人も決して珍しいことではありません。僕のクラスメイトでも実際そういう人はいました。

よく受験期にメンタルを病んでしまう、というような言われ方がされますが、それは本人のメンタルが弱いだとかそんな精神論的なことではないと思います。生活習慣を乱してまで勉強するのが主たる原因ではないか、と思います。具体的には睡眠不足です。どんな人でも睡眠時間が減ると感情のコントロールが効かなくなってきます。これは気合いでどうにかなる問題ではありません。その結果不安を感じやすくなったりするわけです。このことは科学的にも明らかになってきました。だから、心の病気になったからといって自分を責めなくていいですし、周囲の人も病気になった人を「弱い」などと思ってはいけません。逆に頑張りすぎて体調を崩しているのですから。

では、なんでそんな無理をしてまで勉強をするのでしょうか。僕はここに見えない「宗教」の影を感じずにはおれません。

まず考えられるのは、親や周囲の人の発言等から「勉強でいい成績をとらなければいけない」と無意識に思い込んでいることです。これは小さいころからの教育を通じて徐々に強まってくる意識だと思います。

もちろん、勉強が好きで、自己の向上のために自ら進んで勉強をすることは何も問題ではありません。むしろ、望ましいことだといえます。本来、勉強もそうやってやるものですし、受験勉強はあくまで勉強の一角にすぎません。本来自分の人生を豊かにするためにするのが勉強のはずです。

しかし、泣かせてまでも子どもに勉強させることや、「~のような学校に行くのは恥ずかしい」などと教えることは、相手が望まない宗教を無理やり信仰させようとするのに似ていると思います。
こんなことをされたら、子どもの方は、勉強を好きになれないばかりか、プレッシャーになってしまうはずです。また、勉強の目的が「大学に入る」ためだけのものになってしまいます。

加えて、学歴意識の何が問題かというと、自分の価値を自分以外のものに結び付けることにあると思います。

本来、自分自身の価値は自分で決めていくもののはずです。それは、お釈迦様も遺言に「自灯明・法灯明」の話をされたことからも明らかです。これは、「仏法を拠り所として暮らし、最終的には自分以外のものに頼らなくてもよいような自分、自分で自分を救える人間になりなさい」ということですが、この「仏法」をどう紐解いても、社会的地位で人を差別するような思想はないはずです。加えて、自分以外のものに自分の価値をゆだねるというような思想もないはずです。

そもそも、自分の子どもの価値をその子以外のものに結び付けるなど、子どもへの信頼を欠いた行為で、消極的な人間を育てているようにしか見えず、教育者としていかがなものかと思いますが。
 
もし仮に子どもが「~のようなレベルの大学に行かないと自分は価値がない」とか、「~大学よりも偏差値の低い大学に行っている自分はその大学に行っている人よりも劣っている」などという「宗教」につかってしまえば、自分で自分を承認できなくなってしまいますし、それこそ無理な目標を設定して無理なスケジュールで勉強をして体調を崩すことにもつながってしまいます。

親の側は別に悪気があって教育しているわけではないと思うのですが、こうした勉強の強制や、学歴意識の鼓吹がその子どもを追い込み、心身の健康を害させてしまうのなら、それは「カルト宗教」を押し付けているのと変わらないと思います。カルト宗教を布教している人も、自分が「カルトだ」などとは少しも思っていないように。

ニュースや学校では「カルト宗教」の危険についてたびたび論じられ、「~のような手口の勧誘には気をつけてください」などと言います。しかし、そういう本当に危険な団体についてはニュースでも取り上げられますし、人々も警戒します。
しかし、「灯台もと暗し」というように、僕らを本当に苦しめる「カルト宗教」は、自分が「当たり前」と信じて疑わない(もしくはそう信じさせられた)価値観だったりします。そして、僕らがそれに気付く前に心を蝕んでしまう可能性があります。

自分の心を自分で守るためにも、今まで「~するのが当たり前」だと思っていたことを一回疑ってみる必要があると思います。
今回の問題でいえば、自分の生活習慣を乱すことはなによりも恐ろしいことだと僕は思っているので、自分を追い込んでまで勉強はするものではないと思っています。また、受験勉強の「勉強」は人間の価値を決めるような力はないと気づくべきです。受験とか学歴に執着せず、自分が本当にやりたいことの勉強をしてほしいです。
そして、もし学歴など社会的地位で自分を差別するような人間に会ったら、そういう人間とは関わる必要はないと思います。そういうふうに地位で人を見る人間は、こちらが困窮したときに助けてはくれないでしょう。そうやって人を差別する人間に振り回され、心を病んでしまう人がいたならかわいそうでなりません。

今回は筆致がやや厳しくなってしまいました。おそらくこれは、実際に苦しんでいる人を僕自身知っているからかもしれません。
社会的にもっと、身の回りの心の苦しさを抱えている人に寄り添い、その人の苦しみの原因は何か考え、どうやったらその苦しさを取り除いてあげられるか考えていく必要があるでしょう。


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