「女ふたり、暮らしてみる?」
「そろそろ、1人暮らしきつくない?」と、水餃子を頬張りながらTちゃんが言う。
中国の家庭料理を出す、小ぢんまりとした居酒屋のカウンター。隣でひそかに、一世一代の告白にも似た言葉を、温める私。
私たちは、大学時代からの友人だ。お互い、かれこれ1人暮らしの10年選手である。
私は1人暮らしが好きだ。他人の感情に敏感な(HSPの自己診断をしたらがっつり当てはまる)私にとって、自分の部屋は誰にも侵されることのない、唯一の安全基地だ。
でも、1人で暮らしていて「コレ、大丈夫?」と感じる場面はある。
たとえば風邪で寝込んでいるとき。新しい洗濯機を受け取るために、仕事を休まないといけないとき。友人夫婦の新居に遊びに行ったとき。
この「大丈夫?」には、身に染み込んだ社会規範と、内側からくる寂しさの両方が、混ざり合っているのだと思う。
結局のところ、たいていのことは「大丈夫」で済む。適切に対処すれば風邪は治るし、在宅勤務を選べば、平日も荷物は受け取れる。寂しさは、他人といる煩わしさより幾分マシだ。私の1人暮らし歴、だてじゃない。
でも、友人夫婦の新居の残像だけは、脳裏に残り続けた。「結婚して若くして家を買う=成功」みたいな、内面化された社会規範は、なかなか根強い……
数か月前に、書籍『女ふたり、暮らしています。』を手に取ったのは、「大丈夫?」が徐々に私の中で膨らんでいたということの、証左なのかもしれない。
この本は韓国に住む女性2人が、お金を出し合って家を買い、猫4匹とともに暮らす日々を綴ったエッセイだ。
お互いの仕事に誇りをもち、高め合い、そして愉快に暮らすさまが、とても素敵で。
2人が私に教えてくれたのは、「同性の友人同士でも、支え合って幸せに暮らしていける」という、シンプルで新しい事実だった。
私はこの本の話題を持ち出した。Tちゃんは「え!私も読んだ!」と驚いている。でも私には、Tちゃんもこの本を読んでいるはずだという確信があったので、驚きもしない。
「この本に影響されて、一緒に暮らす人を探してるの。周りからは旦那を見つける方が早いって言われるけど、旦那と暮らしたいのかなあ、私」と首をかしげる彼女。
わかるわかる。ビールを一口飲んで、さり気ない風を装って、「暮らしてみる?」と尋ねる。Tちゃんは、「え!暮らそう!」と、私以上に乗り気になってくれた……!
私は異性愛者だが、男性と暮らしたいとは思わない。男性と対等なパートナーシップを築く方法がわからないまま、ここまで生きてきてしまった。
私は相手の顔色を窺い、過剰に期待に応えてしまう。だからはじめは喜ばれるのだけれど、私がケアをすることに疲れてきて自己主張を始めると、相手は落胆し、怒り出す。私にとって、愛情は支配や抑圧と紙一重である。
期待に応えようとしすぎる性格が、あらゆる面で人生に支障をきたしているという自覚は、ある。だけれど、男性と暮らすために積極的に改善しよう、という思いはどうも湧かない。1人で好きなことをしたり、同性の友人と過ごす時間のほうが、圧倒的に安全で、幸福だからだ。
Tちゃんの美点は、私(他人)に求めないところだと思っている。彼女は自分で自分を肯定できているので、他人に承認してもらう必要性が低いのだと思う。
私の話をあんまり聞いていないし、彼女の話を私がちゃんと聞いていなくても気にされない。勝手な評価やアドバイスをしてこない。
だからこそ私は、Tちゃんに対して割と適当な振る舞いができる。それって、私が男性とは築いてこられなかった、対等なパートナーシップの礎ではないか?
Tちゃんとの暮らしを想像してみる。
私は朝、彼女の気配を感じながら目覚めるのだろう。料理上手で酒好きの彼女と時折、晩酌を楽しむだろう(調理代は喜んで支払う!)。彼女の大量の蔵書はリビングにまで侵食していて、私は勝手にそのうちの1冊を取り出し、感想をすぐに伝えられる相手がいる幸福を感じるだろう。
私は家事が得意ではないし、蔵書もTちゃんほどじゃない。彼女に与えられるものを何も思い付かない。
でも、Tちゃんは「自分のためにはできないけれど、あなたのためなら掃除機をかけられる!」と言ってくれた(紹興酒をあおりながら、だけど)。それでいいのかもしれない。それでいいではないか。
実現する日がくるのかは分からない。でも、「女ふたりで暮らす」話をできる相手がいる、そのことが嬉しくて。
満腹だった。駅までの道を、寒い寒いと言いながら足早に歩く夜が、どこかあたたかかった。