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知覧特攻平和会館を訪れる

前回の万世特攻平和祈念館の記事はこちら。

 万世特攻平和祈念館を訪れたのち、車で知覧へと向かう。知覧は知覧町というイメージがあるが平成の大合併により頴娃町と川辺町の三町は一緒になり現在は南九州市となっている。

 旧加世田市から薩摩半島の内陸部へと車を進めると、周辺は典型的な丘陵地区といった感じであり、またバイパスも整備されていてドライブするにはよい道路である。猛暑を除けば。30分ほどで知覧平和公園の交差点へと着く。そこから正面の平和会館方面を見ると、道路の両脇と中央分離帯に並木が続いている。桜並木であるが8月のこの時期は茂った葉っぱが熱気にやられて元気がなさそうに見える。天気は曇ってきたが相変わらず猛暑である。右側に茶屋と書いてあったりお土産屋が見えたりしたがそれはスルーして駐車場へと車を止める。
 目の前は体育館で奥には野球場が見え、なるほどここは特攻の資料館と主に地元の公共施設と物産の販売を複合したエリアなのだなと理解する。かつての基地の跡地であるから平坦な土地が多く残っており、公共施設の建設に適した用地が得られたのだろう。実際に知覧では終戦後すぐ飛行場は壊され茶畑等に利用されることになった。そのために戦争の遺構はあまり残っていないようである。この辺りについては知覧訪問後1ヶ月ほど経って読んだこの2冊の書籍を参考にしている。ここからはこれらの書籍から得た情報も参考に書いていく。

福間良明『「戦跡」の戦後史――せめぎあう遺構とモニュメント』(2015)

福間良明・山口誠 編『「知覧」の誕生――特攻の記憶はいかに創られてきたのか』(2015)

 さて車を降りて知覧特攻平和会館へと歩いて向かう。途中の通路の手前に航空機が展示してある。個人的にはあまり食指が動かなかったのでスルーしたが、こういった航空機のレプリカの展示は根強い人気があるようだ。必ずしも特攻に利用された航空機ではないが、空へのロマンというものは時代を超えて人を引き付けるものがあるのだろう。
 この時点で万世特攻平和会館との最も大きな違いは人の多さである。訪れたのは8月の後半の平日であったが、建物の前にも多くの人が行き来していて、エントランスのチケット売り場にも2,30人くらいが滞留している。チケットを買うための列というわけではなく家族を待っている等の理由で人が滞留していたのであるがいずれにせよ観光スポットとして人気があることが窺える。オリンピアンが記者会見で訪れたい場所として答えたことが多少影響しているのかもしれないが、鉄道の走っていないこの場所にこれだけ多くの人が訪れているのはやはり驚きである。

入口

 入り口から入ると左手に売店があり、正面に中の広い部屋に入る扉があり、その右側には大きなモニターで知覧飛行場と特攻の歴史についての映像が流れている。そのモニターの前のベンチには10人ほど座っており、その後ろには立ち見している人が10人20人ほどいて落ち着いて見られる状態でなかったため映像自体は後で見ることとして、正面の遺品室も後回しにして右手に回り、展示されているゼロ戦の機体の横を通り過ぎて奥へと進む。そこは海軍水上特攻艇「震洋」の展示や企画展のあるスペースとなっている。
 展示を覗きつつ、万世特攻平和祈念館と同様に、知覧特攻平和会館として特攻作戦が立案・実行された経緯についての解説を探していると、そこの廊下にA1サイズくらいの紙2枚くらいに印刷され、漢字にルビが振ってある説明文が下がっていた。
 そこの説明文によると、特攻は「組織的な作戦」であったと書かれ、作戦が取られた理由として書かれていたのは「パイロットと飛行機の不足、養成や生産が追いつかない等の理由も重なり、少ない人数で大きな船を沈める可能性のあった特攻作戦が行われたのです」という一文だった。かなり表面的な記述だという印象を受けるが、ルビが振ってあることから小中学生くらいを対象にしている説明だからこんなものなのだろう、と理解する。簡易的に印刷された展示資料であるため、別の展示室に特攻作戦の経緯等について詳しい説明があるのだろうとその時は思った。
 また、特攻が志願か強制か、という論点については「当時、日本では国のために忠義を尽くすという教育が行われていたため、多くの若者が責務や責任感から特攻隊員になりました」という一文でまとめられていた。「多くの」と限定することで議論を避けつつ、遺書等に書かれている内容と矛盾しないような表現になったのか、無駄死にではなかったと思いたい遺族の心情を尊重しているからなのか、真意はわからないところであるが、冷静に客観的に見ると、少なくとも、見る人に「強制された」とは思わせたくないのだろうな、という意図は伝わってくる。近年の議論や研究の蓄積を踏まえていないと思ってしまうし、子ども向けであればなおさら丁寧な説明が必要でないかと思う。
 そんなことを考えながら企画展を見てみると、いち特攻隊員について掘り下げるような内容のものであった。多くの特攻隊員の遺品や資料の蓄積があり、それを企画展にしているのだろうなと想像される。隊員のパーソナリティに近づくという点では万世の祈念館と通じるものがある。

 館が設定している正式な順路はなさそうであるが、オーソドックスな順序とは逆をたどってメインの展示室である「遺品室」へと入る。そこでは部屋の壁側に主に遺書が展示されていて、真ん中には知覧飛行場のジオラマや特攻機のメカニカルな面についての解説映像等が流れている。遺書については、万世の祈念館の方が解説や背景等が記載されていて丁寧だったように思う。ただ遺品室についてはどの展示の前にも人がいてじっくり読んでいるような状態で、そこに割り込んで展示を見るのは少し難しい状況だった。土日祝日であればもっと混むのだろう。
 そのため、私は、遺書等の展示を見るより先に、遺品室の展示や解説を見て回りながら、特攻作戦が取られた経緯について書かれているものを探し歩くことにした。そうやってしばらく遺品室を歩いていたが、飛行場のできた経緯や太平洋戦争に関する年表に「体当たり攻撃を進言、必要を具申」という記載はあったものの、特攻作戦が立案・実行された経緯や理由について解説しているものを見つけることはできなかった。そういった冷静な歴史分析よりは、エモーショナルな解説や飛行機の仕組み等に重点が置かれているようだ。その後、遺品室を出て他の展示室もしばらく見て回ったものの、特攻作戦をなぜ取ることになったのかという点についての解説をついぞ見つけることはできなかった。また、特攻について志願か強制か、という論点についても言及されているものは見つけられず、遺書や手紙をシンプルに展示している、という印象だった。
 奥にある視聴覚室では語り部、おそらく戦後生まれの60代くらいと思われるスタッフが解説をしていて、その冒頭だけ少し聞くことができたが、特攻作戦については「戦況の悪化の中で、1機で1艦、数千人を倒せるかもしれないという効果を見込み特攻作戦が立案された」という趣旨の説明がされていた。たしかに表面的にはそういう理屈かもしれないが、それのみを解説することが適切であるとは思えない。戦争の作戦を立てる上で、この作戦を取れば何人の犠牲が出る、というようなことはあるだろうが、従事する個々の兵士が死ななければ効果が上がらないことを前提とした作戦を立てること自体が当時の常識にも反していたこと、なぜそのように人命、いわば貴重な人材を失うことを旧日本軍が所与のものとしたのか、そこは語り部だからこそ厚く説明できるところだと思うのだが、そこはスルーしてしまったのでそれ以上は聞かずに別の部屋へと回ることにした。

 知覧の平和会館について、全体として私としてはかなり不満というか、特攻に関する情報が不足しているな、という印象を持った。万世の祈念館の時のも書いたとおり、特攻に関する公設のミュージアムとして最も重要なことは、当時の日本軍がなぜ特攻作戦を立案し組織的に実施してしまったのか、その判断はどこで誤ったのかについて訪れる人が判断できる材料を与えることだと考えているが、館全体から受けるイメージとしては、特攻作戦命令が下されたことを「所与のもの」「前提」とし、その前提を疑うことはせず、その後何が起きたかだけを羅列している資料館、といったところである。他にも「突進する気魄、意志力」「選ばれた誇りを胸に」「愛する祖国を守るため旅立って行きました」等と、変えられない運命を受け入れることへの美学のようなものを強調するような文言も数多く見られた。
 遺品室の入口には「再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で」展示していると書いてあるが、特攻隊を再び作らないために必要なのは情念というよりは、冷静な歴史認識と問題点の分析の方がはるかに重要だろう。「私たちは、特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ、国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し」という文面もあったが、エモーショナルに過ぎる、という印象である。将来ある若者たちを犠牲にさせてしまった戦略や旧日本軍の抱えていた問題点を、変えられないものという前提に立たないと、崇高な犠牲によって生かされていることに感謝という思考にはたどり着かないように思う。前提のおかしさに切り込まず感情に訴えかけるだけで戦争が防げると思っている人は、同じく感情的な理由で戦争へと走ってしまう危険性があるのではないだろうか。
 このような、「尊い犠牲」のような定型文に関する疑義を呈している元特攻隊員のインタビューも今年話題になったばかりである。

 特攻しかり、南方戦線で飢餓で亡くなった兵士しかり、戦略上の重大な誤りにより亡くなった方々を、我々が「尊い犠牲」と本当に言って良いのかは冷静に立ち止まって考える必要がある。

 先に紹介した「『知覧』の誕生」でも指摘されているところであるが、特攻の脱文脈化、すなわち、特攻作戦が取られた歴史的経緯や背景といった文脈を捨象して、自己犠牲、家族愛のようなものだけが前面に出てくるという現象が出てくるのもやむを得ないなと、知覧特攻平和会館の展示を見て思わされた。知覧に関しては、平和会館が作られた背景には観光振興という側面が大きかったことは先に紹介した『「知覧」の誕生』にも指摘されているところであるし、知覧の住民自体が経験した悲劇ではないというような要素も、歴史的な記述等が疎かになっている一因だろうと思う。万人に受容されるような内容を追求した結果がこのようなミュージアムを作っているのかもしれない。
 個人的には戦争遺構や戦争ミュージアムが脱文脈化して良いわけはないと思っているが、思想良心の自由があり人それぞれどう受け取るかは受け手に委ねられているところでもある。ただあまりに特攻作戦の前提に関する情報提供が足りていないと思う。元々集めた遺品を展示することに主眼が置かれていたという背景があるにしても、もう少し太平洋戦争全体についての総括をした方が、特攻が行われた文脈について、来館者も大きな学びが得られて、戦争を二度と起こさないという平和会館が掲げている目的に近づくだろう。

 このような特攻をどう伝えるかに関して、山本研二「『特攻』を子どもにどう教えるか」(2022)は一般向けの書籍で特攻について簡潔にまとめつつ子どもに事実をどう伝えるかという点の理論と実践について書かれているため、お薦めしておきたい。

 前回までの記事で書いた内容と総合すると、地理的にも20㎞ほどしか離れていない2つの特攻に関するミュージアムであっても展示の仕方やスタンスの違いを強く感じた。これは実際に訪れてみないと分からなかったことであり、訪れた価値は十分にあった。今回鹿屋の航空基地史料館まで足を延ばせなかったが、いつか訪れられればと思う。また福岡の大刀洗平和祈念館も再訪して、万世、知覧のミュージアムとの相違点について整理してみたい。


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