島原城築城400年記念 築城主松倉重政の物語 -弍-
海道の城 〜松倉重政伝〜
天津佳之
-弐-
「豊後様」
新兵衛の声が、見送りに立った二見の民の声と重なって、重政は頭を振った。
大和から陸路を取って九州に至り、肥後長洲の津から船で対岸の肥前高来に渡れば、そこはすでに日野江藩の領地である。長々と輿に船にと揺られた重政の足元は、どうかすると覚束ず、波に揺らされつづけた頭も茫洋としてはっきりせず、大和の幻影がちらついた。
(これも、あの山のせいだな)
思いながら、目の前に立ち上がる山の尾根を見上げる。
海辺から急激に立ち上がる斜面は青々とした木々に覆われて、まるで森がそのまま盛り上がったようにさえ見える。大和の山岳に似た、美しくも雄々しい山であった。
「豊後様。土地の者がご挨拶をしたいと申しております」
再度掛けられた声に、重政は山を見据えたまま、身体だけを新兵衛のほうに向けた。
「許す。連れて参れ」
そうして新兵衛が連れてきたのは、五十がらみの小男であった。身形は小袖と羽織で整えつつ、よく日に焼けた顔がいかにも漁師といった風情である。
「松倉様、ようこそ島原にお越しくださいました。皆、良い殿様がいらっしゃったと喜んでおります」
「島原……とは、この辺りの土地の名か」
露骨な世辞よりも、重政はそこを聞き付けていた。
「はい。ここより北、前山の前に広がる原の云いにございます」
「なるほどな」
肥前国高来は筑紫海に突き出た半島にあり、海からは独立した島のように見える。また、山の端から海辺までの距離が近く、広い平原は限られた。それゆえの名であろう。
「そなた、名を聞こう」
「はい。船津の源兵衛と申します」
「案内を申し付ける。日野江の城まで、頼んだぞ」
重政は、小大名らしい気安さでそう言うと、ようやく源兵衛の慌て顔を見た。
「あの山だが、船の水夫は前山と申しておったが」
やはり気になるのは、山のことだった。何もかもが大和とちがう土地にあって、この山の様相だけが同じに見え、重政にとっては己とこの地とを結びつける象徴とさえ思えた。
「へえ、温泉山の前にそびえておりますゆえ、前山と申します。あのように雲居に眉を引いたような美しい姿は、土地の自慢にございます」
「そうか……そなたらも、あれが美しいと言うのだな」
美しいという感覚は、土地によって大きくちがうものである。いま、目の前の山に対して同じ感慨を持てるということは、いずれ自身もこの地に馴染めるという証左でもあった。
ただ、重政は前山(眉山)に美しさだけを見ているのではなかった。大和の金剛山は役行者所縁の霊山であり、厳しい修験の山でもあった。前山にも、必ずやその厳しさがあるにちがいないと思えた。それは、新たな領国経営の臨む重政の気構えに他ならない。
「お前を、儂の新たな金剛山にしてくれようぞ」
そう独りごつと、重政は再び輿に乗り、源兵衛の先導のもとで高来を南へと向かった。
島原から日野江まではおよそ六里の道のりを、大和から連れ来った二百名ほどの家臣団とともにゆっくりと進んだ。道すがら、安徳、深江、有家などの村々に姿を見せながら、一行が有馬にある日野江に入ったのは、陽も雲仙の向こうに沈んだ夜のことだった。
――こうして、松倉重政は肥前日野江藩に入部した。時に元和二年七月、重政四十三歳のことである。
[注釈]
※1新兵衛・・・松倉豊後守重政の腹心・岡本新兵衛
※2二見・・・重政の旧領・大和国二見のこと。現在の奈良県五條市。
※3肥後長洲・・・現在の熊本県玉名郡長洲町
※4前山・・・現在の眉山
※5筑紫海・・・現在の有明海
※6温泉山・・・現在の雲仙岳
※7六里・・・一里は約三,九キロメートル。六里は約二三,四キロメートル
※8安徳・・・現在の島原市の最南部周辺
※9深江・・・現在の南島原市の深江町周辺
※10有家・・・現在の南島原市の有家町周辺
※11日野江・・・現在の南島原市の北有馬町周辺。重政一行は安徳・深江・有家・日野江と南下している
※12元和・・・元和年間は一六一五年から一六二四年。元和二年は一六一六年