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探究記-吹きガラスを通して 


小学生から高校生までは絵を描くのが好きだった。特に上手かったわけでもない、高校の日記には訳のわからない絵を描いてたのを思い出す。自由な表現を見える化できるところに楽しさを感じていた。
特にアートにどっぷり入ることはなく、20年があっという間にたち2022年に出会った”吹きガラス”を趣味として始めた。
私の観点から感じたことをこの記事にまとめようと思う。

なぜ吹きガラスなのか

自分でもよくわからないし、直観的にやりたいからやるレベルで私は決断してしまう。
ただ、過去を振り返ると、故郷の琉球ガラス工房が隣町にあったり、琉球ガラスきれいだなぁ、と感じていた時があったことを思い出す。
Netflixで『Blown Away』という吹きガラスのリアリティショーを見て、いくつかエピソードを観た後には、私もやる!のレベルに達していた。
そこまで思えたのも、ガラスが無意識レベルで好きだったのと、なにか表現したい欲望が溜まっていたからかもしれない。
そして、近くに吹きガラス工房がないか探すと…なんと片道30分のところにある!今やらないと後悔すると思い、すぐに問い合わせをした。
講座は作家さんとのワンツーマンという、非常に豪華なセッティングだった。

異世界を垣間見る

安全のため工具の使い方をや注意事項の説明を受けた後に、とりあえずやってみようという流れになった。
子供の時に吹きガラスの見学を行った覚えがあるため、竿にガラスがついている風景はなんとなく懐かしさを感じたが、竿を握るのは初めてだった。
溶解炉から1000℃以上のドロドロのガラスを竿に巻き付けることから始まる。
溶解炉の扉を開けた瞬間に感じるもの凄い温度。
ほんの数秒以内に巻き付けないと手が熱くて🖐️ヤケドのように赤くなる。
竿に巻き付けたガラスを、作業用ベンチに座って濡れた新聞紙で優しくガラスを撫でて形を整えるため、数百℃の高熱モノに数センチ近くまで手を近づける怖さ。
400度ぐらいまで冷めすぎると、急に“パリっ”とヒビが入り割れてしまう。ガラスが割れる音を聞くと、家でコップを割ってしまった感情が湧くかのように焦る。
グローリーホール(再加熱炉)でガラスを適度な温度に保つのだが、
それが想像以上に熱くて作業ベンチから何回も往復するため気づいたら汗びっしょり。

崖の淵で絵画を描いているかのように、危険と隣り合わせでモノづくりをやっているかのように、その時の私は感じた。

心と体、体とガラス

柔らかいガラスは重力により形が変化しやすい。
竿を水平にして止めると、竿先に付いたガラスは下向きに曲がり始める。
曲がりを防ぐために、竿を回し続けるのだが、竿を回してガラスの中心を取るのが想像以上に難しい。
濡れた新聞紙でガラスの形を調整する時、
左手で竿を回し、右手で濡れた新聞紙を持ってガラスをなでる。
左手は自動運転かのように、無意識に回し続けなければならない。
視点は常にガラスに置いて中心がズレていないか確認をする。そして右手で優しく触れて形を整える。
一つに意識を使い過ぎると、別の行動がうまく進まない。右手の作業に意識が行き過ぎて、竿の回転が遅すぎてしまうことが良く起きた。
やりたいことに体が答えてくれない感覚を面白いほど痛感した。
心と体にブレができてしまうと、ガラスもそれに答えるかのように歪むように感じた。
先生は私に「もっと姿勢よく」と頻繁に指摘していた。
緊張をしてガラスの様子を伺おうとし続けると、自然と前かがみになって近視眼的になっていたのである。
カッコ悪いだけでなく、一つの作業に集中してべつの作業を劣っていた象徴だった。
この頃から姿勢よく見栄えだけはカッコよくやろうと思い始めた。
(まだできていないと思うが…)

ガラス創作を行える作業場が三か所並んでいるため、他のプロ作家さん達も隣で作業をしている。
無駄がなく、違和感のない動き、個々の独特なリズム、になにか美しさを感じる。
そして、竿先に付いたガラスがその動きを象徴するかのように美しいのである。

今しかできないカタチ

最初の半年ぐらいはグラスを作る練習をひたすらした。
普通のグラスを作ろうとしても、どこかの工程で曲がったり歪んだりする。
私の不手際で起こったはずが、意外にも好みの形に仕上がることがあった。
微妙な曲がりや凸凹が、それを掴んだときの心地よさを感じさせる
グラスの底をうまく潰せずに底が丸く仕上がることもあった。ゴロンゴロンと安定しないグラスも、ある程度広ければ簡単には倒れないことがわかり、この形状も良いかもと感じた。

振り返ると計画していない形が好きだったことが多い。
計画からブレてしまう時は、自分の判断ミスであることが多く、自分の嫌いな部分があらわになるかのように、ガラスに反映される。
最初は“ミス”として捉えていたが、
人間らしさがガラスに宿るかのように可愛く今は感じる。

極端な失敗からの発見

吹きガラスで大きな失敗は2パターンある。
ガラスを冷やしすぎてパリッと割れる、
もしくはドロドロしすぎてドローっと垂れてしまう場合。
前に一度、熱し過ぎてしまい、息を吹き入れているときにドローっと下に40センチほど垂れてしまった。
ああぁ失敗だ〜、と固まっていた私に先生が「息を入れてみて」と言うので、思い切って竿に息を吹き入れると、
垂れたガラスがぷくーっと膨らみ始めた。
魂が入るかのように感じた。
そしてすごく独特で面白いカタチだったのである。
しばらくグラスを作り続けて基礎練習を繰り返していたため、
暗闇に少しずつ光を灯し広げていた感じだったのが、
その時は突然遠いところに光が灯ったような感覚を覚えた。

物理

ガラスが視覚的に温度の状態を教えてくれる。
簡単にクネクネ動くほど柔らかい場合はかなり熱いし、
動きから判断できなくてもオレンジ色を帯びていれば高温であることがわかる。

もし先の部分だけ形を変えたいときは、グローリーホールに先の部分だけを入れるように熱する。一方で他の部分が冷え過ぎないように全体を短い時間だけ温める必要があり、これをフラッシュと呼ぶ。
肉厚のあるガラスは熱持ちがよいが、薄いグラスなどの場合は冷えやすいためにフラッシュを頻繁に行う。
グローリーホールで加熱している時はガラスの状態を確認することが難しく、少しでも熱し過ぎると形を変えたくないところが変形したりする。
これは感覚との勝負であり、
料理人がちょうど良い焼き加減を見極めるのと似ているかもしれない。

様々な工具があり、
丁寧にやさしく形を調整したい場合は濡れた新聞(紙りん)で撫でる、
大きく形を変えたいまたは温度を下げたい場合は金属板の台(マーバー台)でコロコロ転がす、
部分的に形を変えたり様々な作業に役が立つ洋バシ(ジャック)、
小さくつまんだりすることに使えるピンサー、
他にもハサミなどもある。
ホームセンターに行くと、使える道具がないか探すことが楽しみの一つになった。
熱帯魚の粗目の砂利を敷いて、熱いガラスをその上に転がして凸凹したテクスチャー作りの実験などしてみた。今も色々と試行錯誤中。

色々な工具を使って力をガラスに加えて形を変えていくのだが、
手に工具を持って瞬間的に作用するものあれば、
連続的に作用するものもある。
連続的にガラスに作用しているのが重力と遠心力。

自然の力で好きなカタチに近づけて、工具でより具体的な表現をする
ようなイメージで私は作業をしている。

環境と自分

最初に先生としてついてくれた方は、
基礎技術を丁寧におしえてくれて終始アドバイスをいただいた。
創作時間はできるだけインプット、
創作外の時間は感じたことを書き留めてアウトプットを行いできるだけ言語化に徹した。
トントン拍子で上達するわけではなく、時には小さなスランプに見舞われ、以前できたことができなくなることもあった。
意識的に理解している工程に変化があると何故がわかりやすい、
でも無意識に感覚レベルで覚えているところになんらかの変化があって気づかなかったのかなと思う。
仕事や子育てで疲れている時にはなかなかうまくいかず、逆にノリノリの時にやってもうまく行かないことがあった。
今日は調子いいかわからないけどやってみよう、ぐらいの気持ちが意外とよかったりもした。
ちょうどいい感じにリラックスすることで、感覚レベルで覚えていることにアクセスしていたのではと思ったりもする。

最近、先生が別の県に引っ越したため、新しい先生に代わった。
新しい先生は作業中はできるだけ干渉しないように、最小限のアドバイスをくれて、空間を大切にしている。
私から質問か、明らかに間違った動きをしない限り、入ってくることはしない。
自由に私がやりたいことをやってよい形式になっため、
創作の時間が急にアウトプットの時間に代わったのだ。
最初は非常に緊張気味だったが、
思い切って吹いてみると、想像以上にうまくできるようになっていたことに気づいた。前の先生が教えてくれたことが、突然できるようになったかのように感じた。
もしかするとこれも気持ちの問題だったのかな。
周りの目を気にしてしまう自分は、
吹きながら「うまくいってますかね」と先生の様子を伺ってしまう時があった。これがリズムを崩していたのではないか。
環境が変わり、リズムを作りそこに乗り続けることを意識するようになった。
前の先生から学んだことを面白いようにアウトプットできている。
ずっと前のインプットが現在につながったように感じた。

自分の表現

今のところはグラスやコップをメインに創作をおこなっている。
そもそもガラスを通して何を表現したいのか、どのようなグラスを作りたいのか。まだしっかりとつかめていないが、自分が今思う傾向は徐々にわかってきたような気がする。
例えば、対称的と非対称を持ち合わせている見栄え。
すべてツルツルよりも凸凹感があるほうがしっくりくる。

ガラスは天然成分(珪砂・ソーダ灰・石灰)を1000℃以上の高温で溶かしてできている。
ガラスそのものが自然のモノ、
使い手にパワーが届くような大地の力を引き出したい。

生まれ育った沖縄との関係があるのだろうか。
砂浜の粗目の砂、波打つ海、上に広がる青い空。
また沖縄の地層は石灰岩が広く分布しているため、大体の自然の岩がゴツゴツしている。ツルツルした自然のものを触った記憶がない。

自分が漠然とイメージしていたテクスチャーを持つグラスがオンライン上でみつけることができたので、
先生にこんなテクスチャーどうやって作れるか尋ねてみると、
次の講座に珪砂をバケツに入れて用意してくれていたのである。
珪砂に穴を作り、そこにガラスを吹き入れて型を取る。
その時の自分にしっくりくるテクスチャーを持つグラスを作ることができた。
また、(意図をしていなかったが)グラスの底が丸みをもっていて、若干コロコロしそうだったが、テクスチャーが凸凹しているのでコロコロしても割と安定感があり、機能しそうなグラスを作れた。
周囲のサポートがなければ作れなかったものであり、感謝の気持ちとともに、ほのかな満足感に浸った。

誰かの手に渡る

始めて展示をする機会がやってきたのである。
スタジオのオーナーの展示会であるが、スタジオの受講生も展示をしてよいとのことだった。

合計6個のグラスを出展することにした。
締め切りギリギリに三つの小中大で違うサイズの「凸凹コロコロコップ」を準備した。
吹きガラスを始めた当初に作った小さめの普通のグラスと、制作過程で失敗して形がつぶれた同じ形のグラスを、ペアで展示することにした。並べて置くと、なんか面白い調和だった。
最後にもう一つ、工程で失敗したけど気に入った「ぐしゃっとつぶれたワイングラス」。これは花瓶として使える。

ドタバタしていて、締め切り日に段ボールに詰めて、スタジオに持っていった。作品の写真を撮り忘れたため、横浜で開催される展示会に家族で行き、作品の写真を撮る予定だった…
しかし!展示の初日後にメッセージをいただいて、作品が一つを除いてすべて売れてしまったと連絡が!
写真を撮れずに無くなってしまったと、少し寂しく嬉しかった。

展示会に行ってスタッフに伺うと、一人の方が気に入って全部購入したらしい。しかも「一番最初のファンになります」と手書きのメッセージを残していたのである。
誰か知らない方に渡ったことに不思議な感覚もあり、
気に入ったくれたことに非常に嬉しく感じた。

自分の部屋にたくさんガラスを飾って楽しみに浸っていたのが、他の方にガラスが渡ることによって新しい感覚というか、そもそもなぜ吹きガラスをやっているかを考え直すほどのインパクトを感じた。
よくわからないけど、ガラス達を自然に返すような気持ちがする。
作品が自然の循環に戻るような…

以下の写真は、売れ残った「ぐしゃっとつぶれたワイングラス」を花瓶として自宅で愛用中。


ここまで読んでいただきありがとうございます!
このような形で定期的に文章に残していく予定です。
よろしくお願いいたします_(._.)_

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