見出し画像

歪んだビートと終わらない輪――J Dillaがもたらした魔法――

初めて触れる“ズレ”の衝撃

J Dilla――ヒップホップを知っている人なら、この名前にピンとくるだろう。あるいは「どこかで聞いたことあるけど、詳しくは知らない」という人もいるかもしれない。でも、いざ音源を聴いてみると、けっこうな確率で「なんかこのビート、妙にズレてるけど……めちゃくちゃ気持ちいい?」となる。僕もそうだった。 最初の印象は「これ、機械の使い方が下手なのか、それとも演奏ミスなのか?」と戸惑うほど、リズムが“揺れている”ように感じた。ところが繰り返し聴けば聴くほど、不思議とクセになる。正確なキッチリ拍じゃなく、わずかにこぼれるようなスネアや、ちょっとだけ先走るハイハット……。そういう歪んだ配置こそ、J Dillaの真骨頂なのだと知ったとき、「ああ、これは“ズレ”を意図的に作っているんだ」と、目からウロコが落ちる思いがした。

ヒップホップのビートメイクといえば、MPCなどのサンプラーでリズムを組み立てるのが一般的だ。普通はクオンタイズという機能で拍にカチッと揃え、綺麗にリズムを合わせる。でも彼は、それを“あえて外す”ことで、まるで生身の人間が打楽器を叩いているかのような生っぽさを手に入れた。しかも適当じゃない。微妙に走る箇所、逆にちょっと遅れる箇所……そういう細かな駆け引きを計算して、絶妙なグルーヴを作り上げていたらしい。 いわば“ズラしの美学”とか“Dilla Time”なんて呼ばれるものが、Dillaの代名詞になっている。僕は最初、この妙なヨレ具合に戸惑ったけれど、いつの間にか虜になってしまった。

ドーナツに託されたもの――「Donuts」が生んだ神話

J Dillaの作品といえば、何はさておき「Donuts」を挙げる人が多いだろう。リリースされたのは2006年。インストゥルメンタル主体のアルバムで、30曲以上がめまぐるしく入っている。しかも、ほぼすべての曲が1〜2分程度の短さで、最後の曲から再び最初へループする作りになっている。 世間では「病室で作った遺作」として有名だ。実際、彼は難病を患っていて、リリースからわずか3日後に息を引き取ってしまった。だからこそ「Donuts」には神格化されたようなドラマがまとわりついている。母親がサンプラーやレコードを病室まで運んだとか、点滴につながれながらもビートを叩き続けたとか……諸説ある部分も多いらしいが、少なくとも闘病生活の中で作曲を続けていたのは事実だろう。

アルバムタイトルは文字どおり“ドーナツ”だ。なぜドーナツなのか。彼自身が大のドーナツ好きだったとも言われるし、最後と最初が輪のようにつながるアルバム構成を象徴したとも語られる。いずれにせよ、聴いていると何かが終わりそうで終わらない、つまり“ずっと続いていく輪っか”を連想させる。しかも曲同士が連鎖的に切り替わるせいで、聴き手はどこか妙なトリップ感に包まれる。 不思議なのは、全編インストなのに、どこかメッセージめいたものを強く感じるところだ。もともとヒップホップの世界ではサンプリングを使うアーティストは数多いけれど、Dillaのサンプリングは“細かく刻んで並べ替える”という、いわゆるマイクロチョップを多用する。元ネタがどれだけ有名だろうと、Dillaの手にかかると一気に別世界の音に変貌する。コラージュの中で聴こえるボーカルやメロディが、断片的に何かを伝えているようで、言葉にならないメッセージがこぼれ落ちているようにも思えてしまう。 「Donuts」が名作と呼ばれるゆえんは、多分そこにあるんだろう。ヒップホップ・インストの枠を超えて、聴く人の内面を強く揺さぶる。しかも作った本人はもうこの世にいないのに、妙なほど“生きた音”がする。闘病中にこんなアルバムを生み出したという話も相まって、「人間の想いをビートに封印した」みたいな神話ができ上がっているのかもしれない。

Soulquariansと紡いだ革命――Common、Erykah Badu、Questlove

90年代末から2000年代初頭にかけて、ネオソウルと呼ばれる潮流があった。ソウルやジャズ、ヒップホップが混ざり合い、アーティスト同士がコラボしながら新しいサウンドを模索していた時期だ。その中心人物たちがSoulquariansと呼ばれる集団で、ラッパーのCommon、R&BシンガーのErykah Badu、The RootsのドラマーQuestloveなどが名を連ねていた。その中にDillaもいて、彼らとともに新しい地平を切り開いていく。

Commonは「Like Water for Chocolate」というアルバムで、Dillaのトラックを多数使用。特に「The Light」はヒップホップ好きじゃない人でも耳にしたことがあるかもしれない。あのゆったりした温かさ、キレすぎず柔らかいドラム、絶妙に揺れるリズム――まさしくDillaらしさが詰まっている。Commonは後に「Dillaこそ最高のプロデューサーの一人」と公言し、闘病中も彼を支え続けたと言われる。
Erykah Baduは「人生で初めてサンプリングを教わったのはDillaだった」と話している。彼女がデトロイトのDilla宅を訪ねたとき、床や壁にはレコードが山のように並び、まるで研究所のようだったと驚いたそうだ。一緒にレコードを選んで、ここを切り取ると面白いんじゃないか、みたいな作業を楽しむうちに「自分でもビートメイクできそう」と思わせてくれたのがDillaだったとか。
そしてQuestloveはドラマーとしてDillaから大きな刺激を受けた。クオンタイズを切ってズラしまくったビートを、生ドラムでどう再現するかにこだわり、D’Angeloの「Voodoo」制作時にもDillaの感覚を参考にしたという。Questloveは「Dillaのビートは機械でも人間でもない第三の何かだ」なんて言い回しをしていて、ドラムの世界観を根底から覆されたような衝撃を語っている。

こうした仲間たちとのセッションや、リスナーたちへの影響は、今でも計り知れないほど大きい。例えばThe Rootsの作品にも、Dillaが撒いた種のようなサウンドアプローチが散見されるし、Erykah Baduのアルバムからはあの緩やかで揺れる雰囲気が色濃くにじみ出る。まさに「ズレの魔術師」がソウルクウェリアンズの音楽をぐっと奥深いものにしたと言っても過言ではないだろう。

今も受け継がれる“ローファイ”の血脈

ここ数年、ネット上ではローファイ・ヒップホップやチルホップといったジャンルが人気を博している。深夜にYouTubeを開くと、女の子がノートをとるアニメが延々と流れ、そこに緩やかなビートが流れている――そんな動画を見かけたことはないだろうか。ああいうまったりサウンドも、実はJ Dillaの遺産に強く根ざしている。
雑音やノイズを残したまま温かみを出す作法、ビートをカチッと揃えずに若干ヨレた生感を狙うアプローチ……そうしたローファイ特有の空気は、DillaがMPCやサンプリングで作り上げた“気持ちよいズレ”の概念を大いに参照しているのだ。海外の若いビートメイカーが「僕はDillaから全部学んだ」とあっけらかんと語るケースは多いし、ローファイ・コミュニティの人たちの間でも「ディラを神と仰ぐのは当然」みたいなムードがある。

もちろんDillaひとりが創始者というわけではないが、彼が90年代末~2000年代前半に築いたMPCサウンドのスタイルは、後のビートシーン全般にとてつもないインパクトを与えた。トラックの低音がふくよかに響き、上モノはジャズっぽいコードをサンプリングして、ドラムは緩やかにズレる……そういう“いまのビート感”の大部分を形作る礎となったのがDillaだということは疑いようがない。

まだ封印されたままの音源と尽きない都市伝説

Dillaが生涯に作ったビートは、とんでもない数に上るらしい。死後、倉庫やレコード店から「Dillaの未発表テープが見つかった」というニュースが断続的に飛び込んでくるし、母親が監修した「Jay Stay Paid」や「Motor City」といったアルバムでも、まだ世に出ていなかった音源が少しずつ掘り起こされている。
ファンのあいだでは「金庫に膨大なビートが眠っている」「Lost Scrollsという未発表の束がある」といった噂が絶えない。もはや都市伝説の領域かもしれないが、Dillaを愛する人々は「また新しいテープが出るかも」と期待を捨てていないのだ。
実際、近年になって発見されたビートを編集してリリースする企画もいくつか行われており、「あの独特のグルーヴが、死後十数年を経てもなお新しく感じる」という声が多い。時代が変わっても、Dillaのビートは古臭くならない。むしろ、サブスク時代にこそ映える。短い尺でコロコロ曲が切り替わるのなんて、いまのリスニング習慣とも相性がいいじゃないか、とすら思ってしまう。

“輪”は終わらない――Donutsが示したメタファー

「Donuts」の象徴的な部分の一つは、アルバムの終わりと始まりがつながっていることだと言われる。最後の曲がフェードアウトした瞬間、また最初の曲へとシームレスに戻っていく。つまり、ずっと聴き続ければ際限なくループする“輪っか”。これを音で体現した点が非常に面白い。
その輪っか構造は、まさしくドーナツの形そのもの。そして、生前の彼を想えば「音楽は終わらない」というメッセージにも思えてくる。彼が32歳の若さで亡くなったという事実はあまりに早すぎる別れだけれど、その後も続々と未発表音源が発掘されたり、多くのアーティストが彼のビート感覚を受け継いでいる。Dillaが“人生の終わり”を超えてなお、音楽はずっと輪になって広がり続けているわけだ。
輪を描きながら再生されるビートは、何度でも新鮮に感じられる。聴く側の感情によって、そのズレが切なかったり心地よかったり変化するからだろう。個人的には、深夜に「Donuts」をスピーカーで小さく流しっぱなしにして作業していると、不意に「もう朝か……」となっていたりする。その間ずっとアルバムが回り続けているわけで、これもまた音楽が生き延びる姿と言えるのかもしれない。

ズレを肯定する勇気

J Dillaのズレたビートを初めて聴くと、人によっては「リズムが狂っている」という違和感で拒否反応を起こすかもしれない。確かにリズムって、普通は揃ってこそ美しいと思い込みがちだし、音楽の精度はシビアなほど良いという価値観もある。
でも彼が示したのは、ズレることこそが新たな扉を開くという事実だ。カチッと正確に合わせるのではなく、微妙に外す。その“外し方”の妙が、むしろ聴き手の心をくすぐり、新しい快感を生む。これは音楽に限らず、人生でも当てはまりそうな話だ。
完璧じゃない、むしろちょっと抜けてるくらいが魅力になる場合もある。みんなが同じペースで歩く中で、自分だけちょい後ろを歩いてみたり、逆に少し先に走ってみたり。そうすることで新しい風景が見えるかもしれない――僕はDillaのビートから、そんなことを学ばされた気がする。
SNS時代では、何でも最速・最短・最効率を求める空気があるけれど、Dillaに出会うと「別にそう急がなくてもいいんじゃない?」と肩の力を抜きたくなる。ズレるって悪くないし、そこに人間臭さが宿るかもしれないじゃないか、というメッセージをひしひしと感じるのだ。

最後に――“Donuts”をループしながら

もしまだJ Dillaを聴いたことがないなら、あるいは名前だけ知っていて深掘りしていないなら、「Donuts」をぜひ体験してほしい。音楽ストリーミングサービスで簡単に聴けるし、最初は「短い曲がいっぱいあって何が何だか」と思うかもしれないけれど、何度かループすると段々と一曲一曲のキャラが見えてくるはず。 気づけば、その絶妙なズレや断片的なサンプリングフレーズが、頭から離れなくなっているかもしれない。そして興味が湧いたら、CommonやErykah Badu、The Rootsあたりの作品を聴いてみるといい。そこにも「Dilla的なるもの」がいっぱい転がっていて、「ああ、ここにも痕跡が生きてるんだな」と面白くなる。

Dillaの本名はJames Dewitt Yancey。ジェイ・ディーと名乗っていた時期も長い。いろんな名義で曲を作り続け、その生涯は短かったが、ヒップホップの歴史を大きく動かした革新的存在と言える。亡くなってもう十数年経つのに、その影響力はますます拡大しているようにも見えるのがすごい。 そう考えると、「Donuts」の最後の最後、曲が終わってまた冒頭に繋がる輪っか構造は象徴的だ。死んでも終わらない、輪のように巡る音楽。それを創ったDillaというアーティストは、僕らの中でこれからもずっと響き続けるだろうし、新たに生まれるビートメイカーの脳内にも生き続けるだろう。 ズレているのに快感がある、終わりそうなのに終わらないドーナツの輪がある――そんなDillaの世界に触れると、確かな熱を感じるはずだ。彼のビートは記録でもなければ過去の遺産でもなく、今なお進行形で僕らの感性を刺激してくれる“生き物”のようなものだから。

夜中に少し疲れたときに、あるいは休みの日の昼下がりに、Dillaのビートをかけてみるといい。 いつの間にか足でリズムをとって、ズレを体で味わいながら、「なんだか気持ちいいな」とうつろに口元が緩んでくるかもしれない。それこそがDillaの魔法。そうやって輪は続いていく。自分もその輪の中に取り込まれて、気づけば新しい景色を見に行こうとしている。まさに音楽の魔法としか言いようがないだろう。


いいなと思ったら応援しよう!