見出し画像

【戦後80年80作】呉淞クリーク(日比野士朗)

日中戦争有数の激戦だった上海戦線での戦闘をルポした「呉淞(ウースン)クリーク」は、戦記文学に要求される皇軍意識とは無縁のところで、戦争の実態を描いた佳作である。際限ないクリーク、一面の泥沼、トーチカによる中国軍の頑強な抵抗。著者はこの熾烈な戦場のすがたを、戦友への鎮魂をこめて綴る。

中公文庫版背表紙

なぜか我が家にはこの『呉淞クリーク』が3冊もあります。

文庫を2冊買ったのは何故なのか(覚えていない)


右側の単行本は昭和14(1939)年7月発行の初版です。装丁は画家の鳥海青児によるもので、表紙の絵は本文中の一場面を描いたものです。

見返し部分


2000年発行の中公文庫版は表紙のタイトル通り「呉淞クリーク」と「野戦病院」の2編が収録されているのですが、単行本の方にはこの2編の前に、「召集令状」と「出帆」という2つの短編が入っています。

筆者の日比野士朗(1903-1975)は小学校の代用教員を勤めたのち新聞社に入社、その後1937年に34歳で応召されます。
34歳ということで、結婚しており、子供もおり、病床の母もいる……という状況です。

「召集令状」「出帆」は、そんな筆者の出征するまでの数日間にフォーカスした内容となっており、筆者の職場や友人隣人、家族についての描写が中心となっています。おそらく、そのような個人的な内容ゆえに文庫の方には収録されなかったのだろうと思います。

しかしながら、これら2つの短編には筆者の平凡な日常が突然の召集令状によって揺らいでいくさまが克明に描かれています。戦争を知らない私たちにとっては、もしかしたらこちらの方が戦場の描写よりもよりリアリティを持って「戦争」というものを感じられるかもしれません。

以下に、「召集令状」「出帆」より、それぞれ一部を引用したいと思います。


召集令状

途中で人を訪ねたりして、社に出勤したのはひる過ぎだった。ちょうど上野の美術展覧会の招待日だったから、社には顔だけ出して、すぐにその方に出掛けるつもりでいたのである。

だから、30分ほど前に画家の井口が来たと給仕から聞いた時にも、私を誘いに寄ったのだろうと思ったのだ。が、机の上の彼の名刺を見て、私はハッとした。鉛筆でこんなことが走り書きしてあったのである。

ーーチェロの青木君に今朝召集令状がおりました。貴兄のこと案じられます。

名刺を持ったまま、私はしばらくの間呆然として突っ立っていた。いろいろな思想が、とりとめもなく、ただぐるぐると頭のなかを駆けめぐるのである。ちょうど私の正面の硝子越しに、お向うのビルディングの窓に、空色の事務服を着た少女が両肘を突いて、放心した可愛い顔で往来を見下ろしているのが目にはいった。その建物の上には夏の空がぎらっと輝いていたし、お隣の茶房からはレコードが響いてくるし、凡て世は事もなし、と言いたいような銀座の真昼だった。
私はぐるりと振り向きざまに、誰にともなく言葉を投げつけた。
「僕、もしかすると出征かも知れない。僕と同期の男が今朝召集されたんですって」
私の唇には微笑が浮いた。自分の表情が妙にこわばっているのを感じながら、どうにも仕方がなかった。名刺は右手にしっかりと握りしめたままだった。
同僚の一人が私の顔を見て、へえ、それは大変ですなと言ったが、その瞬間、私は自分と彼等との距離が急に何十倍も隔たってしまったように感じた。


出帆

私たちは前途に果てしもなくひろがっている青い海と、自身をもって舳先を空に向けているまっ黒な船と、入道雲よりも高く聳(そび)え立って、その鋼鉄の腕で戦闘資材をひき攫(さら)って行くクレーンとーーそんな超人的な力に吞まれて、隅の方に小さくなっているより仕方がなかった。これから私たちがその渦中に投じられるであろう「戦闘」というものは、もはや私たち兵隊の区々たる個性の問題ではなくて、千とか万とか言う人数を単位とするような一つの大きな全体の意志と、その意志を遂行するための「戦略」という数学によって初めて生命を与えられ、動き出し、最後の勝敗を決定するのだというようなことを、出帆間際のたとえようもない波止場の混乱がほのめかしていた。

私が半月ばかり前に突如として召集令状を受けたときにも、私はやっぱり、容易ならぬことだとおもった。しかしいよいよ私が決心の臍(ほぞ)をかため、出征に必要な準備にとりかかってみると、私という一個人と世間とを十重二十重に結びつけている糸が、どんなに私をうんざりさせ、溜息をついてどっかり座らせてしまったかわからなかった。そのときにも私はやはり、容易ならぬことだぞとおもったのだった。

だが、今私が目の前に見ている八幡揺るがぬ怪物は、今までとは全然違った、私という個性を零にしてしまうような、そんなふうな容易ならぬものを私に感じさせていた。しかもこの光景を真実に感じているのは兵隊の私だけであった。妻も、友人も、子供も、誰もこの激しさはわかってくれず、彼等はただ個人の感傷の波の彼方に、浮いたり沈んだりしているのであった。ああ、今にして私は彼等とこうまで遠い世界に離れてきたことを知ったのだった。私たちはまだお互いに何でも話のできるときに、もっともっと聡明にものを考え、心の持ち方をちゃんときめなければならなかったのだ。



どこかで「日中戦争はその後の戦争に比べれば児戯に等しいものだった」という趣旨の文章を目にしたことがあります。

どのような戦争であっても駆り出され命を落とす人間がいるという点では等しく、戦争同士を比較することはナンセンスではないかと思いますが、確かにこの『呉淞クリーク』のなかで描かれる日中戦争は、目を覆うような悲惨さも残虐さもなく、まだどこか人間らしさの余地があるように感じられます。(そしてこの余地こそが、この作品が結果として戦意高揚に利用されることとなった理由にも繋がるように思います)

弾丸音はますます凄くなって来る。とうとうもう何も聞こえなくなった。ただ、夏の豪雨のように、ざあざさあという音だけである。すると、私のすぐわきで一人の兵隊が、
「まるで村雨だなあ」と、ぽつんと言う。これがそのとき私の聞いたただ一つの言葉であった。

呉淞クリーク


帰還後に書いたこの作品によって、筆者は火野葦平、上田広らとともに「兵隊作家」として名を挙げ、1943年には大政翼賛会文化部の副部長を務めます。

このような経緯もあり、戦後の文筆活動はほとんどなく、没後に出版された松尾芭蕉がテーマの書籍が最後の作品となりました。

4つの短編すべてが収録されたペーパーバックが出ていましたので、興味のある方は是非読んでみてください。

いいなと思ったら応援しよう!