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【戦後80年80作】学窓に帰った学徒に(谷川徹三)

たとえどれほどの興味関心があろうと(あるいは塵ほどもなかろうと)、現在の我々は戦争に対して傍観者の立場とならざるを得ません。しかし傍観者だからこそ見えるもの、傍観者にしか見えないものも存在するのだと谷川徹三(1895-1989)は述べています。

この文章は1946年の『中央公論』に掲載されたものです。
文中の強調部分は傍点での表現であったところを太字としています。



今の君たちの本当の気持ちがどれだけ私に分かっているかを私は今この瞬間にも危惧している。何といっても世代の違いは争われない。そして君達と私との間にはちょうど一世代の違いがあるのである。しかし私達の直面しているこの未曾有の局面と、知識人としての位地とには、あらゆるちがいを超えて、お互いを結びつけるものがあると信じている。

街の表情はまだ自失状態を取り戻していない。新聞やラジオに見られる混乱も、この自失の反映としてよい。何かの動きもことごとく衝動的で、一貫した意志が表れていない。そういう状態の中で君達学生の表情には、すでに一抹の生気があらわれ出している。私の個人的に接触する諸君の中には一層そのことを感じせしめるものがある。これは若さのせいだけではないであろう。

君達の中にも、今もって何か片づかぬ気持ちをもてあましているものが多いであろう。しかし、それは、街の表情の中に見られる、何が何やら分からないというあれではないであろう。

君達の中にも、何ものかに対する憤懣を抑えがたい者があるであろう。しかしそれも、街の表情の中に見られる、少しも自己反省のないあの見苦しい行動となるようなことはないであろう。つまり、君達はすでに、漠然とではあっても、どうしてこうなったか、どこにその原因があったかを感知し、そしてそれを、一層深く突きつめようとしている。とともに、問題を自己反省も含めた意味で自分自身の問題としようとしている。そういう動きを私は君達の表情と言動との中に見ている。

日比谷公園あたりに見られる情けない情景をもって君達の全般を推しようとする人があるならば、君達自身それに抗議するまでもない、私も君達の友人としてそれに抗議する。かつて君達は、その遊情や、実行を伴わぬ理屈を批判せられた。しかし君達は戦場でも工場でも、立派にその非難の不当であったことを実証した。戦時日本を一時的にもせよ実際に双肩(そうけん)に担ったのは君達であった。

今やそれにも増して多くのものが君達に負わされようとしている。日本の未来は君達の双肩にかかっているからである。

君達の中に蘇りつつある生気が、どれだけその自覚にもとづくかを私は知らないが、その自覚に無関係とは思わない。君達の先輩の一人は、先日も私を訪ねて、昂然として言った、われわれは身をもって大きな歴史に直面してきた、その歴史を生きて来た、それは戦いのそとにあったものの知りえぬことだ、未来はわれわれが築かねばならぬ、と。私は戦争にも行かねば、徴用もされなかった自分を顧みた。それに私は戦災にも会っていない。

私は東京の空襲の最も劇(はげ)しかった3月の初旬から6月の初旬まで、胃潰瘍で臥せっていた。小さな防空壕へはタンカで入れて貰うこともできないので、頭巾だけをかぶって、時には硝子戸を破った物凄い地響きの中に、いつも観念の目を閉じていた。ある時は日本の運命を考え、ある時は少し前に亡くなった母のことを思い、ある時は、その光が地球に達するまでに百万年もかかるという遠いところにある星のことを考えていた。戦争の体験ということになると、私は最も貧弱な一人であるというほかはない。

昭和17年7月、「改造」に書いた一文が当局の忌諱(きい)に触れて以来、私は文筆から全く遠ざかっていた。何かのつながりによって、然るべき筋に私の意見を具申したことはあったが、公けには私は活動を停止していた。それでも憲兵は私の隣家に、隣組に、町会に、学校に来た。私はいやでも傍観者にならざるをえなかったのである。

しかし私は常に日本のことを思っていた。少しでも早く戦争を終えるてだてを、少しでも国民の不幸を少なくする方策を、いつか戦争がすんだとき新しい日本を打ち建てるべき支柱となるもののことを考えていた。今年の1月からは5、6の同志とともに、時々会合してそういう問題を話し合った。私達の力でそれはどうなるものでもなかった。それでもそうせずにいられないものがあったのである。

私は傍観者なるものの意味を信じているものである。局に当たっているものには、局に当たっているというそのことのために分からぬことが傍観者には分かる。勿論、局に当たっているものでなければ分からぬことがあるので、それは傍観者には分からぬ。しかしその事実は常に説かれているのに、前の事実は閑却されがちで、それだけにわれわれは事あるごとにその局に当たっているものにその事実を気づかせねばならぬのである。批評の機能は結局そこに基づいている。その点、批評の自由のあった国が勝って、その自由のなかった国が負けたということにも大きな意味があると思っているが、しかしそれにもかかわらず、批評とは常に消極的な機能であり、傍観者は如何なる場合にも建設のことに与らぬのである。

私は日本の知識人の置かれている位地について今考えている。かつて立教大学の教授で東京帝大にも出講し、今はアメリカにおける新進の作家の一人となっているブラッドフォード・スミス氏が、日本の知識人に与えた一文(新潮11月号)を読んで私は初めてその問題に気づいたのであるが、彼等は、日本の知識人と大衆との間にほとんど区別を設けていない。スミス氏はシヴィリアン(管理人注:民間人のこと)として来たので、立場も自由であり、また彼はかつて5年の年月を日本で過ごし、日本のことをよく知っている。彼のその一文は理解と好意とに満ちたものであった。その彼がどうして日本の知識人と大衆との間の区別を認めなかったか。結局知識人の戦時中の行動によってである。われわれも行動としては当局の指導のままに従って行ったからである。戦場においても銃後においても国民は一体となっていた、これが彼らの国外からの認識である。国内として見れば多くの乖離があった。知識人の心は大衆の心でなく、大衆の心は知識人の心でなかった。しかし心は国外からは分からない。国外から分かるのはその行動である。行動においては日本の知識人は大衆と異なることなかったのである。この二重の性格――国内においては大衆と乖離していながら、国外から見れば大衆と一つに見られるこの二重の性格は、今日われわれのもっとも反省せねばならぬことであろう。それはわれわれの弱さのみではない、虚偽をも示しているのである。

その点から私は敗戦に対する自己の責任を感じている。自分の存在を殊更に大きく考えようとする心からではなく、どんな小さな存在でも、それぞれその位地における意味をもって歴史の因果の中にその役割を演じていると考える私の形而上学的確信からである。私は自分の信ずるところに命を賭けなかった。この点を責められる時、私には返す言葉がないのである。

私はかつて言われた一億総懺悔というあの言いかたを好まない。特にそれは為政者から言われるべき言葉ではないと思うもので、当時、応徴者や農人から、一斉に反噬(はんぜい)せられたのはもっともである。しかしそれぞれの地位にあって、それぞれの地位にふさわしく、自分を反省することは必要であろう。それによってわれわれは初めて問題を自分の問題とすることができるのである。

私は問題を自分の問題としないで、いたずらに他を責める人達を信用することができない。すでに街のポスターには煽情的で無責任なものが、あちこちに見られる。デマゴーグは人を代えてまたあらわれるであろう。悪質の便乗者もすでにあらわれている。諸君がかかる徒輩(とはい)に乗ぜられるとは思っていないが、戦時中の事態を知っているだけに私は安閑としていられない気がするのである。

私は戦時中、日本の政治が如何に人間の心の動きを無視して行われたかを概いて来た。政治家は人間通でなければならぬ、というのが私の信条である。しかし人間通なる言葉が常に人間の弱点と暗黒面とに通じているものに冠せられがちであるように、政治も、その人間の心の動きを悪用するものに利用されがちである。軍人官僚が人間の心の動きを無視した政治をして来たことは、権力を笠に勝手に振舞うことができたからとはいえ、それは彼らの愚かさを語るのみで、その卑しさを語らない。新しく続出するデマゴーグ達は人間の心の動きをもっと卑しく、狡猾に利用するであろう。私はその徴候をすでに街のポスターに見ている。

世間はズッと世知辛くなっている。眼前の諸問題を実際に解決すべき綱領を示さないでは、人々はついて行かないだろう、と言う者がある。私もそう思っている。しかし問題の解決は絶望的に困難で、生活の窮迫は言語に絶している。そういう中で理性を失った人々は、時にはただ一つの合図、ただ一つの言葉で動き出すものである。私は危険を予感せずにいられない。

私は諸君に特にその危険を感ずるというのではない。私は街の表情の中にその危険を感じているというまでである。しかし私はかつて諸君の先輩達の理想家的熱情が、幼稚な公式主義に躍ったり、笑うべき神がかりに走ったりした実情を知っている。何でも一色に塗りつぶさないではいられぬのが日本人の性急であるが、青年の熱情は一層それに拍車をかける。

諸君は昔の学生の知らなかった苦労をして来た。諸君はすでに世間を見て来た。戦線から帰った人も多いであろう。その体験は諸君を思慮深くしているであろう。若くしてすでにオトナになったものもあるであろう。しかし同時に、その体験は諸君の心を荒らしている。工場や職場は諸君に多くのものを与えるとともに多くのものを奪ったのだ。その事実を私は諸君が謙虚に反省することを望むものである。

従来日本人は、上下のつながりは緊密であり、上の命令には従順であったが、対等の人間と人間とが交渉する横のつながりにおける訓練に欠けていた。つまり国民としての訓練はできていたが、社会人としての訓練はできていなかったのである。今や国家的統制がその権威を失って、上下のつながりが弛緩し、そのために横のつながりは一層混乱している。日本人はそのあらゆる道徳的欠陥をさらけ出している。

制度の改革によって新しい秩序を打ち建てることは、この混乱を救う一つのてだてであろう。それはすでに日程に上がっている。しかし制度は人によるのである。人間の改造なくして有終の美はおさめえないであろう。今日の日本に必要なことは国民性の欠陥に対する厳格な反省と、その改造への熱意とである。

戦時中の偏狭固陋(ころう)な外国蔑視が敗戦の一因をなしたものとすれば、今日すでにその徴候をあらわしている卑屈でだらしない外国崇拝は新日本の建設を阻むものとなるであろう。かつての日本人の外国崇拝には日本人の理想主義があった。彼らは外国崇拝の形を借りて自己の理想を崇拝していたのである。すでにその徴候を見せている卑屈でだらしない外国崇拝にはこの理想主義が見られない。国民性の欠陥に対する反省とその改造への熱意とは、根本において日本と日本人への信頼の上に立たなければならないのである。その信頼はこれを愛と言いかえてもよいが、それなくしては日本は亡ぶのである。

私は神がかりどもの偏狭な国家主義に対して、常に国家を超えるもののあることを言って来た。私は世界と世界の歴史とを言って来た。私は天地の公道を言い、自然の法を言い、宇宙を貫くロゴスを言った。しかし私は一人の日本人として日本を愛するものである。国家を超えるもののあることを言って来たのは、その国家を超えるものに対する畏れを知ることが、真に国家を正しく生かす道であると信じたからである。

私は国民としての訓練に対して社会人としての訓練を説いて来た。しかしそれは社会人としての訓練が国民としての訓練の前提条件となり、それなくしてわれわれが真に大国民となることは不可能であると信じたからである。

私が個人と個人文化とを説いて来たのも、それを閑却して、国民と国民文化との充実のありえぬことを信じていたからで、私の心は常に今日の日本にあったのである。

私は今日の日本の直面している危局は、社会主義的改革なくしては切り抜けることのできぬものだと考えている一人である。しかし私は社会主義者ではない。私は国家に更うる(管理人注:国家を変えるの意)に社会をもってせんとする如き見解をとるものではない。私は今日の世界においては依然として国家存在の意義を信ずるもので、そしてその国家の最も自然な形態を民族国家に見るものである。私はどこまでも一個の日本人である。

私は少しばかり自分を語り過ぎた。私はもっと君達の気持ちに立ち入って、君達のことを言いたかったのだが、もうその余地もなくなったので、最後にひと言だけ言いたいことを言っておく。それは、自分の問題を常に国の問題として考えるとともに、国の問題を常に自分の問題として考えて欲しいということである。

私はこの言葉の説明をしないでおこう。それにこれは説明を必要とするほど難しい言葉でもない。一言にして言えば、常に責任の主体たる心構えをもって行動せよということである。しかし私の言い表しは、あの言い表しでなければ、表現できぬものを持っているはずである。というのは、この言葉は私自身私に言いきかす言葉でもあるからである。それを私は諸君にできるだけ真っ直ぐに受け取ってもらいたい。自由は常に責任と表裏している。責任を伴わぬ自由なるものは、政治的にも道徳的にも許されぬのである。

(『中央公論』1946年1月号)



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