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結婚してから十数年、妻にひた隠しにしてきたことがある。その秘密は、どうやら守り通せそうだ。妻は今まさに息を引き取ろうとしていた。 まだ三十八歳だというのに、全身を癌におかされていた。診断されてからたった四か月で、後数日もつかわからないところまで進行した。 痩せ細った妻の手を握り、僕は秘密を打ち明けてしまいたい気持ちを抑え込もうとしていた。伝えるのなら、これが最後の機会だ。ただ、死にゆく人に真実を知らせたとしてなんになるだろう。知ってしまえば、妻がひどく傷つくとわかってい
僕は、君に送る言葉を探している。なぜなら最近、君が冷たくなったから。 目覚めてすぐに、スマホの通知をみた。 まだ、夜は明けていない。暗闇の中にスマホの画面が浮かび上がる。通知がないものを開いたところで、届いているはずはなかった。 ベッドに入ったのは0時を少し回った頃だった。それから、目覚めるのは三度目。僕は毎夜、こんなことを繰り返している。 待っているのは、付き合ってひと月になる彼女からの返信だった。 本当なら、電話をかけて声を聞きたいくらいだが、僕は彼女の電話
私はよく男の人に誘われる。 この状況をグチにすると、嫌みにしか取られないことにも困っている。 とにかく、誰からも声をかけられたくない。たとえどんなイケメンであろうと。 そんな私にとって「またね」という言葉は、本気の断り文句であるのに、どうしてもわかってくれない相手がいる。 それは、演劇部の後輩、黒崎歩だ。 黒崎君は、照明や音響をしたくて演劇部に入ってきた。他にも演出や脚本専門の部員もいるのだからおかしなことではない。しかし、黒崎君ほどの容姿があれば、普通は役者を選
『私は、早瀬孝太の母親です。突然の手紙に驚いたことと思います。 毎年夏休みにはこちらに来られますが、今年はいつ頃になるのでしょうか。 孝太が、あなたに会いたがっています。あなたから声をかけて、いろいろお話をしてもらえませんか。 あの子があなたに会えるのは、今年が最後になるかもしれません。』 ☆ 小学生のころ成美の両親は離婚をした。 小学四年から六年までの間、成美は高知で過ごした。成美の母が実家に身を寄せたのだ。 そこで、早瀬
母が、櫂(かい)の部屋を定期的に掃除し保ち続けるのは、それが、腐らない遺体だからかもしれない。 久しぶりに櫂の部屋をのぞき込んですぐに、そんな考えがよぎった。 十年もの間、絶対に帰って来ない櫂のために維持されてきた寝床や勉強スペース。無駄でしかないのに、わたしも「処分したら?」とは、言い出せない。 生きていればとうに、学生時代の勉強机など必要なくなっている。 現にわたしは、卒業後シンプルな物に換えた。その机も家を出ると決まった時に、捨てた。 部屋に入る。 深い
ツイッターで『死にたい』と呟いたら『一緒に死ぬ?』と、リプライがきた。 ぼくは、スマートフォンの画面をしばらく見詰め続けた。 そのうちにぼくの中にあった漠然とした願望が確かな輪郭を得ていく。ぼくはその過程を、思考の片隅で意識していた。 これまでのぼくには多分覚悟がなかった。 「死にたい」と言いながら、実際には「生きていたくない」だった。ようは、自発的でなく、偶発的でもかまわない。 初めて「死のうか」と思いついたのは、一年ほど前だった。きっかけは、お気に入りのキーホル
遺言信託を提案するために顧客の家を訪ねた。庭先の楓が色づいている。 門の前でコートを脱ぎ、腕にかける。時計の秒針をみながら約束の時間ピッタリに、インターホンを押した。 私が男性と一緒に訪問したものだから、出迎えてくれた西村様に「夫婦で来はったんやな」と、茶化された。西村様は、セクハラに近い冗談をよく言う。八十二歳の男性で、一回り下の配偶者がいる。『子なし夫婦』だった。西村様は八人兄妹で、そのうち半分は亡くなっており、甥や姪に相続権が代襲されていた。相続の時は、関係が薄い
思い出したいのに、どうしても思い出せないことがある。 確かに声を聞いたはずなのに、彼女の言葉は今、文字でしかなくなった。 ――あなたが好きです。 いつだったか、どこだったかも、彼女が僕を見上げ、言葉を発してすぐにうつむいたことも覚えている。 顔は、口元しかイメージできなかった。目はどうだったろう。 いつから、顔が思い出せなくなったのか、それも判然としない。 名前は、最初から知らなかった。 僕にとって彼女は時々、図書室で顔を合わすだけの存在だった。 同じ年だとわ