解放、あるいは、永遠の呪縛。
母が、櫂(かい)の部屋を定期的に掃除し保ち続けるのは、それが、腐らない遺体だからかもしれない。
久しぶりに櫂の部屋をのぞき込んですぐに、そんな考えがよぎった。
十年もの間、絶対に帰って来ない櫂のために維持されてきた寝床や勉強スペース。無駄でしかないのに、わたしも「処分したら?」とは、言い出せない。
生きていればとうに、学生時代の勉強机など必要なくなっている。
現にわたしは、卒業後シンプルな物に換えた。その机も家を出ると決まった時に、捨てた。
部屋に入る。
深い緑色のカーテンも、几帳面に並べられた参考書も、何もかもがそのままだった。
きっと読みかけの本には、栞が挟んだまま残っている。一度いたずらで栞をずらしておいたことがある。その時は「まだ読んでいなかった場所に挟むのは、許せない」と、責められた。
「軽いいたずらのつもり? どうしても、しなきゃいけないことだった?」
たかが本なのにと、思った。ただ、普段穏やかな櫂がここまで怒るのだから、櫂にとっては“たかが”では、なかったのだろう。
わたしたちは双子で、だから、櫂は誰よりも近い存在のはずだった。それなのに、誰よりも不可解だった。
男女の双子だから……。
それだけでは説明のつかない、不整合だった。今なら、その理由がわかる。
幼い頃から櫂は、口癖みたいに「ぼくたちは二人でひとつなんだ」と言った。
生物学的な知識がある程度ついた後にも、その考えは変わらなかった。わたしが、男女の双子は一卵性ではないと指摘したことがある。その時にも「そういうことじゃないんだ」と、受け流された。考えてみれば『一卵性』についても知らない頃から、櫂は「ひとつ」だと言っていた。
「どうして蓉(よう)には、わからないんだろう」
よく、不思議がられた。櫂があまりにも揺るがないので、理解できないわたしがおかしいのだと、長い間、思っていた。
櫂がいた頃も、わたしは留守を狙って部屋に入った。ベッドに潜り込んで櫂のことを考えていた。考えても答えの出ないことばかりだったから、そのうち疲れて眠ってしまった。目を覚ますと、いつの間にか帰ってきた櫂がそばにいて、わたしの顔をのぞき込んだ。
そして必ず「蓉、ぼくに隠しごとはない?」と、訊いてきた。わたしは必ず「ないよ」と返していた。
本当は、櫂には絶対に言えないことがあったにもかかわらず。
ベッドに近づいていく。
櫂がいなくなったのが冬だったから、どんな季節にも毛布まで出したままだ。掛け布団を捲って潜り込んでみる。換気が足りないせいか、毛布から少しカビの臭いがする。
あの頃は、櫂の匂いがしていた。櫂が死んだあと、毎日ここで眠っていたら、十日も経たずに匂いを感じなくなった。わたしの匂いに入れ替わってしまったのだ。
櫂はよく「淋しい」とも言った。
「なぜ、ぼくたちはふたつになってしまったのだろう」
当然、こたえなどなかった。
「ぼくたちが、別々の時間を過ごしていることが、どう考えたっておかしいんだ」
わたしにはそう漏らすくせに、櫂は、中学からサッカー部に入り、ごく普通の男子と同じような生活をしていた。
そこまで一緒にいたいのなら、櫂がわたしと同じ吹奏楽をすれば良いと提案した。すると、櫂は言った。
「人の目がある場所で長く一緒にいると、元がひとつだと気づかれてしまう」と。
櫂は、わたしにだけそういうことを言った。
ほかの人には、そんなそぶりは見せなかった。父や母でさえ、本当の櫂のことを知らなかった。
「気づかれたら、引き裂かれてしまう」と、言っていた。
櫂はずっとおかしかった。
だけど、櫂がそばにいた頃、わたしは一度だっておかしいと感じなかった。
櫂の、澄んだ瞳にまっすぐと見つめられれば、誰だってきっと信じただろう。
それが、どんなにあり得ないことだったとしても。
櫂とわたしは本当に似ていなかった。
平凡なわたしと違い、櫂は、かなり恵まれた容姿をしていた。つい見入ってしまうほど綺麗な顔だった。ある頃からわたしは、櫂と比べられるのが嫌で並んで歩くのを避けはじめた。
櫂にはすぐ気づかれた。
わたしは「外では一緒にいない方が良いでしょう?」と、誤魔化した。
櫂も「元がひとつだったことを知られたくない」と考えていたので、外で距離を置くことはすんなりと受け入れた。
その代わり、家にいる時間はずっと一緒にいた。体が成長し変化があってからは、もちろん入浴は別々だったし、中学に上がると同時に、それぞれ個室も与えられた。それでも、眠る時は、毎晩どちらかの部屋で一緒に寄り添って眠っていた。その習慣がなくなったのは、単に、櫂の背が伸び、肩幅が広がり、二人で眠るにはシングルベッドではどうにも手狭になったからだ。
わたしは、櫂が思うほどには、二人で一緒にいたくはなかった。
そのことは、ずっと、櫂に言い出せなかった。
そのくせ、櫂の留守には勝手に部屋に入って、櫂のことを考えていた。
何も矛盾はなかった。
わたしは、離れているときに櫂のことを考えるのが、好きだったのだ。
高校への進学の際、二人同じ高校へ進むか、別々にするかでかなりギリギリまで悩んだ。 櫂の方が成績が良かったから、同じにするには、わざわざランクをさげてもらう必要があった。わたしは、自分のレベルをあげる努力を放棄し「別々でいい」と言った。それなのに櫂は「近いから」という理由で、わたしと同じ高校を選んだ。
ずっと、一緒にいるものだと思い込んでいた。
櫂は、わたしを当たり前のように抱きしめ、ごく自然に額や頬にキスをした。
男女ではあったけれど、わたしたちはあくまでも双子の兄妹で、櫂からの過剰なスキンシップにも、性的な意味合いはなかった。
櫂に訊かれたことがある。
「ぼく達が同時に愛せる他人は現れるんだろうか?」と。
わたしは、いつものようにその問いにこたえられなかった。
櫂が好きになった誰かを、わたしも同じように好きになる。
どう考えても無理があった。
「蓉に好きな相手ができたら教えて。ぼくが、その人を好きになる努力をするから」
それならば、どうにかなりそうな気がした。ただ、わたしは誰かを好きになったことがなかったから、その相手が、男になるのか女になるのかもわからなかった。なんとなく、異性を好きになるはずという世間的な常識に照らし合わせて、櫂は、わたしのために同性を好きになるのかと、思っていた。
櫂のベッドに寝転んだまま、いろいろなことを思い出した。あの頃のようには眠れなかった。櫂のことを思うとき、必ず後悔がわたしを満たす。
何がいけなかったのだろう。
どうすれば良かったのだろう。
答えを見つけられても、櫂は帰ってこない。考えても仕方のないことだとはわかっていた。
櫂は、わざわざランクを落としてまでわたしと同じ高校に通い始めたのに、学校ではほとんど話しかけてこなかった。
部活動は中学のころと同じものを、それぞれ続けていた。
相変わらず、家ではほとんど一緒に過ごしていた。授業でわからないことがあれば、その日のうちに櫂から教えてもらっていた。
わたしたちにとっては、それが当たり前だった。
父は単身赴任をしていたし、母は、弱った祖父母の世話をするためによく家をあけた。櫂もわたしも簡単な料理ができたので、何も困らなかった。
母がもっと家にいたのなら、わたしたちがどこかおかしかったことに気づいただろうか。
気づいていたら、何かが変わったのかというと、わからない。
なぜなら、わたしたちは血の繋がった兄妹で、必然として一つ屋根の下に暮らしていたのだ。
時期が、タイミングが変わったとしても、いずれは、同じ結末を迎えただろう。
あれは、高校二年の冬だった。
祖母が入院をして、何もできない祖父のために、しばらく母が実家へ帰っていた。とても寒い晩だった。
一人だと寒すぎたので、櫂の部屋に行った。櫂の方がいつも体温が高いから一緒に布団に入っていたかったのだ。
櫂は嫌がらずに、迎え入れてくれた。
ベッドは窮屈で、だから余計に布団の中は温かかった。
あかりを消したあと、櫂から「好きな人はできた?」と訊かれた。確認されるのは久しぶりだった。
「できてないけど」と、返したあと、櫂にはできたのかもしれないと思った。
わたしは、櫂の選んだ子を好きになれるだろうかと、不安に感じた。
「そうだよね。誰も好きにならないよね」
櫂がすぐにそう言ったから、わたしはホッとしたのを憶えている。
櫂は、同じ布団の中でわたしの頭を撫でながら「ぼくたちが分けられてしまった理由をずっと考えてきた」と、言った。
「他の誰のことも好きになれない理由を考えていたら、分けられたことの意味がわかった」
わたしは、櫂の出した答えが気になって、教えて欲しいと頼んだ。
「蓉、ぼくの体に触れてみて」
言われて、体の横に適当に投げ出していた腕を、櫂の背中に回してみた。普段から自然に触れていた背中なのに、手の平に意識を向けるとその硬さに驚いた。
「ぼくたちは、一卵性でないにしても遺伝子的には近いはずなのに……」
櫂はそう言いながら頭を撫でていた手をわたしの肩にうつした。
布団の中で、二の腕をさすられる。闇の中で、櫂のため息にも似た息づかいと、衣擦れの音が聞こえていた。
「男女というだけでこうも違う」
狭いベッドの中で十分に体を寄せ合っていた。さらに引き寄せられる。
「柔らかい……」
櫂はわたしの肩口に顔を寄せ「香りも違う」と言った。櫂の熱い体からかすかに汗のにおいがした。
首筋に櫂の息が触れたときに、今まで知らなかった感覚があり、わたしは身を縮めた。
櫂の手は、腕から背中にまわり、それから背骨をつたって下りていった。わたしは、櫂に触れられている場所でおきる感覚に戸惑っていた。
「蓉……」
耳元で名前を呼ばれ、思わず首をすくめた。
合わせた胸から、櫂の鼓動が伝わっていた。速かった。そして、わたしも、目眩をおこしそうなほどになっていた。
「ひとつになってみよう」
いけないことなのはわかっていた。ただ、あの時のわたしには、「ひとつになる」ことのほうが、自然に思えた。
分けられた体が、ひとつになりたがっていると、心から感じた。
それなのに、あの夜の行為が、わたしたちを決定的に分けてしまったのだ。
櫂のベッドから出て窓際に向かった。カーテンを捲り外を見る。
すっかり暗くなっていた。隣は、数年前から空き家なので明かりはついていない。
電柱の脇に立つ街灯を見下ろす。
わたしたちは、最後までわかりあえなかった。
わたしは、こじ開けられたときの痛みにさえ満たされた。
確かに、ただの衝動だったかもしれない。
それでも、わたしは櫂が言っていたことを、やっと理解した気になった。
だけど櫂は、自分が得た快楽に希望を失ったのだ。
それから数日経った朝、目覚めてすぐに枕元で手紙をみつけた。
封筒には『蓉へ』と、櫂の文字で書かれていた。
不思議に思いながらも開いてみた。
手紙は『ぼくは間違えてしまった。』で始まっていた。わたしに対する謝罪とともに、あの夜の行為への後悔が書かれていた。
数行だけの短い手紙は『ぼくが、肉体を放棄する。これで本当に蓉とひとつになれる。やっと、願いが叶う。』と、結ばれていた。
別れの言葉はなかった。
櫂はどうしたって、わたしとひとつに戻りたかったのだろう。
自分とわたしがひとつだったこと。
それが、櫂にとっては疑いもない真実で、すべてだったのだ。
いつまで、櫂の部屋が維持されるかはわからない。もしかしたら、母が生きているうちはこのままかもしれない。しかし、わたしがこの部屋に入るのは今日で最後だ。
わたしは家を出て、櫂の知らない人と新しい生活を始める。
櫂がいなくなってから数年の記憶は、ひどく曖昧だった。
わたしは、二年も遅れてたいしたことのない短大に入った。
卒業後は地元企業に就職し、それから、三年ほどは家と職場を往復するだけの生活をしていた。
そんなある日、同僚からコンパに誘われた。人数合わせであることはわかりきっていたが、断るのも面倒で参加した。
同僚に連れられ店に入った。案内された予約席には、一人だけ派手目の女性が座っていた。テーブルに用意されたグラスの数で、十人の集まりだと知った。
男性側はまだ、誰も来ていなかった。端の席を選び、早く終わって欲しいと考えながらうつむいていた。まだ始まってもいなかったのに。
そのうち、男性が数人入ってきた。背後から挨拶をする声が聞こえたとき、わたしは、あまりの驚きに立ち上がり、振り返った。
誰かの声が、櫂にそっくりだったからだ。
すぐに、誰の声なのかわかった。
櫂より少し背は高くて、櫂ほど整ってはいなかったけれど、よく似ていた。
私は、泣き崩れた。
自分がなぜその場にいるのかも忘れて、泣きじゃくった。
彼は、目があった途端にわたしが泣き出したものだから、自分のせいだと思ったのだろう。わたしに「いったん、外に出ようか」と、声をかけてきた。
わたしは支えられながら店の外に出て、「あなたがあまりにも、亡くなった兄に似ていたので……」と、謝った。
わたしたちはコンパには戻らずに、二人で別の店に入った。彼は、わたしが落ち着くまで一緒にいてくれた。その上、家まで送ってくれた。
彼は高校教師で、面倒見がよく真面目な人だった。その後もまめに連絡をくれた。
ただ、あくまでも同情からだった。
彼と出会ってから、わたしには“執着”が芽生えた。
どうにか彼の気をひこうと、服装やメイクにも気を使うようになった。
彼が望む関係を保ちながら、絶対に、他の女が近づかないよう目を光らせていた。
誰にも渡したくなかった。
料理の腕を磨き、一人暮らしの家に行ってふるまった。彼を振り向かせるために思いつくことは、すべてやった。
男と女が二人で多くの時間を過ごせば、いつかは間違いが起こる。たとえ、お互いに恋愛感情を抱いていなかったとしても。
わたしにとって肉体関係を持つことは、赤の他人である彼をつなぎ止めるための手段でしかなかった。
とにかく、彼と家族になりたかった。ずっと側にいて、櫂と同じ声で、名前を呼んで欲しい。
櫂が肉体を手放し、確かにわたしたちは“ひとつ”になったのだと、今は思う。
櫂は、わたしの中にいる。
櫂の抱いたものとは違うけれど、同じくらい揺るぎない想い。
わたしは、自分の中に櫂を感じながら、櫂とよく似た容れ物を持つ彼と、死ぬまで、一緒にいる。
<了>
嬉しいです♪