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死の一瞬前の君へ。

 結婚してから十数年、妻にひた隠しにしてきたことがある。その秘密は、どうやら守り通せそうだ。妻は今まさに息を引き取ろうとしていた。
 まだ三十八歳だというのに、全身を癌におかされていた。診断されてからたった四か月で、後数日もつかわからないところまで進行した。
 痩せ細った妻の手を握り、僕は秘密を打ち明けてしまいたい気持ちを抑え込もうとしていた。伝えるのなら、これが最後の機会だ。ただ、死にゆく人に真実を知らせたとしてなんになるだろう。知ってしまえば、妻がひどく傷つくとわかっていたから今まで言えずにいたのだ。

 妻に隠していたのは、僕と時任智也の関係だった。
 時任とは、大学の頃に知り合った。今から二十年近く前のことだ。
 時任はとにかく目を惹く容姿をしていた。構内を歩いていると、一人だけ煌めいて見えた。全く、住む世界の違う僕たちが交流を持つようになったきっかけは、後ろの方でひっそり講義を受けていた僕の隣に、遅れてきた時任が座ったからだった。時任は人懐っこい性格をしていた。
「はじめて会うよね」
 男の僕でも見惚れてしまうような笑顔だった。僕にはこれといって秀でたところはないのに、何故か興味を持たれた。
 講義のあと、お礼にお昼を奢ると言われた。もちろん、何もしていなかったので最初は断った。
「嫌な顔をしなかっただけでも十分」と、時任は言った。
 僕は、時任の孤独を垣間見た気がした。

 僕とは違い、時任の家はかなり裕福だった。僕は、地方から出てきていたので風呂もない安アパートで暮らし、生活費を稼ぐために居酒屋でバイトをしていた。時任は、僕のシフトを毎月確認してきた。そして、休みの日にはなにかと理由をつけて僕の部屋に遊びに来た。そのたびに美味いものを持って来てくれるので、疎ましくはなかった。時任はすぐに僕のことを「大樹」と、呼ぶようになった。
 僕は時任のことをずっと、寂しがり屋だと思い込んでいた。時任は僕の部屋で過ごすだけで、一緒に何をするわけでもなかった。レポートを必死で書いている僕の隣で、本を読んでいることが多かった。
 その頃、時任には彼女がいた。僕の家にかなりの頻度で来るから、彼女と別れたのかと訊ねたことがあった。時任は「大樹がバイトをしている間に時々は会ってるよ」と面倒そうに言った。
 時任は当然モテた。僕の家に入り浸るようになった後にも数人彼女が変わっていたらしい。時任は、彼女の話題を出すと不機嫌になるので、僕はそのうち訊かなくなっていた。なぜ、そのことを知ったかというと、講義で一緒になった女子に「時任君が次々と彼女作ってなかったら、桧原君と付き合ってるかと疑っちゃう」と、言われたからだ。
「桧原君といる時の時任君、いつも以上に色っぽくて目の保養になるのよね」とも、言っていた。
 時任が僕を特別扱いしていることはわかっていた。時任にしてみれば大した金額ではないのかもしれないが、食べ物だけでなくいろんな贈り物をされた。僕の好きなバンドの公演チケットを手に入れてくれたこともあった。興味を示した映画には必ず連れていってくれた。
 僕の時任への思いは、友情ですらなかった。
 時任の施しを遠慮なく受け取り、見返りとして居場所を提供する。そういう割り切ったものでもなく、餌を与えられ続け、飼い主に懐いたペットに近かった。
 時任は、貧しさを体験したいのかもしれないと思ったことがあった。真夏にエアコンもない部屋で、半裸で汗だくになり、定期的に水道水を頭からかぶって暑さを誤魔化す。夜には一緒に近くの銭湯に行った。時任は、飼い犬をキレイにするように、僕の体を丁寧に洗ってくれた。出会ってから数ヶ月のうちに、僕には、時任のしたがることは抵抗なく受け入れる癖がついていた。過度なスキンシップも、単に人懐っこさからくるのだと気に留めていなかった。二人ともに二十歳をこえ酒が飲めるようになってからは、時任から甘えられることもあった。頭を撫でてほしいだとか、ギュッとしてほしいだとか簡単なことばかりなのでなんの抵抗もなくしていた。膝枕をせがまれてしてやった時に、時任が頭を頻繁に動かすから股間が刺激されたことがあった。僕は、子供の頃校庭で登り棒をした時に気持ち良くなったのと同じだと解釈していた。
 僕にはまだ、他人に対し抱く恋心というものが、まったく理解できていなかった。わかっていれば、取り返しがつかなくなる前に、時任と距離を置けたのかもしれない。

 妻、美幸とは、大学四年になったばかりの頃に出会った。美幸は大学の最寄りのコンビニでバイトをしていた。ふと立ち寄った際に僕が一目惚れをしたのだ。特別に綺麗な顔立ちではなかったが接客の際の笑顔に惹きつけられた。僕は容姿にしろ何にしろ自信のある方ではなかったので、美幸のいそうな時間を狙って買い物へ行くのが精一杯だった。当時は、名札に書いてある『町田』という苗字しか知らなかった。
 思えば、僕の最大の失敗は、時任と一緒にコンビニへ寄ってしまったことだ。時任が、尋常でなく女性からモテることを何故か忘れていた。一緒にレジに並び会計をする段階で、美幸が時任に目を奪われていることに気づき、落胆した。店を出た後に、時任から「レジの子が好みなの?」と訊かれ、僕は「別に」と返した。それからも僕は、美幸の顔を見るために時々コンビニに立ち寄ったが、声をかけることはなかった。

 相変わらず、時任は僕の家に入り浸りだった。時任は卒業をしたら、親の経営する会社に入ることが決まっていた。僕は、就活でことごとく面接に失敗していた。本命と考えていた企業からも不採用通知が来て、僕はひどく落ち込んだ。時任が気晴らしをしようと大量の酒とつまみを買い込んできた。僕はその日、初めて記憶がなくなるまで飲んだ。
 混沌とした意識の中、僕は時任からキスを迫られた。虚な目をして、頬を赤く染めた時任は、妖艶で、僕は拒めなかった。
 長らく、あの夜のことは夢だと思い込んでいた。

 僕は中堅の機械メーカーに就職が決まり、後は無事卒業するだけになった。後数ヶ月で、大学の最寄りのコンビニには用がなくなる。後悔したくないと、美幸への告白を決めたのだ。いつの頃からか、レジに並ぶと美幸から好意的な視線を向けられるようになっていた。時任には、以前好みではないと言った手前、相談はしなかった。
 コンビニ近くで、美幸がバイトから上がるまで待ち続け、出てきたところで声をかけた。
「桧原君、どうしたの? 智也さんに何かあった?」
 僕の苗字を知っていることにも驚いたが、時任を名前で呼んだことが衝撃だった。
「どうして名前を?」
 そう尋ねると、美幸は首を傾げた。
「智也さんから、聞いてないの?」
「何を?」
「私たちが、付き合ってること」
 足元の地面が歪んだ気がした。
 その後、どうやって家に帰ったのかは覚えていない。今まで、時任の交際相手が誰かは確認してこなかった。好みかを訊かれた時に、肯定しなかったのは僕だ。それにしても、時任ならもっと別の女性とでも付き合えるはずなのに、どうしてよりによって彼女だったのか。誰を責められるものでもない。単に、自分に勇気がなかったせいだ。仮に、勇気を出せたからといって何も変わらなかったに違いない。
 部屋に帰った僕は、やり場のない怒りをどうすることもできずにただ部屋の隅に座っていた。時任がやってきたけれど、相手をする気になれず居留守をつかった。
 僕はしばらく時任の訪問を断っていた。ある、雪のちらつく寒い日に家に帰ると、時任が真っ青な顔をしてドアの前に立っていた。流石に心配になり、僕は家の中に入れた。しかし、うちには風呂もない。暖房器具は、扇風機型のハロゲンヒーターだけだった。時任を毛布で包み、ヒーターの前に座らせた。頬がオレンジ色の光に照らされていた。触れてみると死人のように冷たかった。後は、温かいコーヒーをいれるくらいしかなかった。
 少し温まってきたところで、「どうしてこんな無茶をした」と、時任を責めた。凍死しかねない気温だった。
「大樹が避けるから」
 鼻を啜り上げながら言った。それから「やっぱり、町田美幸のことが気になってたの?」と訊かれた。僕は、仕方なく頷いて「好きだった」と返した。
「あんなの、大樹が想いを寄せるような価値はない。声をかけたらすぐついてきて、付き合い始めたらすぐ股を開くような子だよ」
 僕は、時任の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「お前は、好きじゃないのか?」
「好きになんかなるわけない」
 それならどうして手を出したと、思わず時任の肩を掴んだ。
「大樹が、あの子のことをあんな目で見るから」
 時任が僕を見た。頬を涙が伝っていた。今までまさかと思いながらも否定してきたことが、確信に変わった。
「僕が大樹の恋愛対象でないことはわかってる。それは仕方ない。だけど、君が誰かを愛することは、許せない」
 身勝手な告白だった。ただ、出会ってから四年近く、僕は時任から尽くされてきた。 
「だからといって、彼女を傷つけるのは、違うだろう」
「傷つけていない。美幸は僕に愛されていると信じてるんだから」
 嫉妬と憐憫とを行き来して、僕はわけがわからなくなってきた。
「大樹が僕をずっと側に置いてくれるなら、もうこんなことはしない」
 泣きはらした目で懇願された。殴ってやりたいくらいの怒りを抱えているはずなのに、時任の顔があまりに美しくて見入ってしまう。
 人として、僕よりも何もかもが優れている時任が手に入れられずに恋焦がれるものが、僕だという不思議な優越感があった。一方で、僕が片思いをしていた相手にあっさりと取り入り弄んでいたことへの嫌悪感もある。
「彼女とは別れる」
 時任と別れたからといって、僕を好きになってくれるわけでもなかった。無暗に傷つけられるだけだ。このまま、付き合い続けることが幸せだとも思えない。僕は、どうすればいいのかわからなかった。
「好きにしたらいい。僕はもう、お前には関わりたくない。そろそろ、体も温まっただろう。今すぐ出て行ってくれ。そして、二度と来ないでくれ」
 この先どうなっていくのか、僕は知りたくなかった。
 時任と会ったのはそれが最後だった。
 時任は泣きながら僕の部屋を出ていき、それきり訪ねてくることはなかった。
 それから、ひと月ほど経った頃、時任は事故で亡くなった。山道のカーブでガードレールを突き破り崖下に車ごと転落したのだ。
 時任の死をニュースで知ったのと同じ日に、僕の部屋に時任からの郵便が届いた。
 手紙には、短いが強い憎しみの言葉が記されていた。

『君のそばにいられないのなら、僕はこの世にいる意味がない。
 彼女のことは君にあげよう。
 旅立つ前に、彼女にはプロポーズをしておいた。彼女の悲しみは相当なものになる。
 君は僕を忘れられない彼女のそばにいて、とことん苦しむといい。』

 僕は、時任に言われたように、婚約者を突然失い悲しみくれる美幸の側にいた。親友を失い同じくらいの悲しみを抱えた理解者を装いながら。
 何度か自殺未遂まではかった美幸を支え続け、数年ののち「時任を忘れなくてもいいから」と、プロポーズした。
 美幸との結婚生活は穏やかなものだった。時任に対するものとは違っていても、美幸も僕を想ってくれていると信じていた。子供には恵まれなかったが、十分に幸せを感じていた。
 健康診断で美幸の体に異常が見つかり、精密検査で癌だとわかった時には手の施しようがなかった。僕は会社に休職届を出し、看病に専念した。数日の命と医師から告げられてからは、病院に寝泊まりしていた。

 ずっと眠っていた美幸が目をあけた。僕の手を握り返してくれた。
 意識が混濁しているのだろう。僕を見て時任の名を呼んだ。
 なんともやるせない。
 十数年、時任を忘れてほしくて、僕を愛してほしくて、ただ尽くしてきた。
 すべて、無意味だった。
 こんな最後の瞬間に、僕を愛してくれなかった美幸への憎しみが沸き起こる。
 僕は美幸の手を投げ出した。
「美幸、僕が愛しているのは君じゃない。桧原大樹だ」
 時任の話し方をまねた。
 美幸が「ああ」と、悲痛な声をもらした。
 叶わない想いは、きっかけさえあれば強い憎しみへと変貌する。かつて、時任が僕に呪いをかけたように。
 美幸の心拍を表していた波形が直線になった。リズムを刻んでいた電子音は、アラートに変わった。

 <了>

嬉しいです♪