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読書嫌い、海外文学を楽しむ

こんにちは。
英語についての記事はいつも好評だ。
日本はもちろん、世界中で英語に並々ならぬ思いをかけている人がいると思うと、急に友達が増えた気になる。同じように、旅についての記事も書きたくてうずうずしている。
今回の記事は、旅といえば旅だが、始めたばかりのものだ。


海外文学の古典を読み始めた

そう、最近は海外文学を只管に読み、それが生きる楽しみとなりつつある。
生きる楽しみといえば、私は英語コンテンツを見る/読む、海外に出て旅をする、そして最近それに料理が加わったくらいだった。ここに運動が加われば尚良いのだが、散歩の域をなかなか超えることができない。頭を使う方が好きなのだ。見た目を磨くのも悪くはない。が、メイクには飽きがくるときがあるし、ファッションはあまり追及できない。服や小物の価値が分からないのだ。

なぜ、海外文学を始めようと思ったのか、以下に経緯を示す。
私がロンドンで会ったビジネスパーソン、Aさんがいる。彼の情報はどれも役に立つものばかりだが、何より彼の書く文章が好きなのだ。飾り気がなく、そのままを書いている。それは私が大切にしていることでもある。

実際にお会いしたときも、思ったことを気取らずポンポン言うような人だった。配慮とかそういう点で批判されるのだろうが、私は彼の話すスタイルに好感を持つ。嘘がない、気取らない、正直。彼から出る言葉は彼のものだと信頼出来るからだ。必要以上に気にすることもないし、言葉の裏がどうこうを考える必要もない(私はこれを考えるのが本当に苦手で苦痛なので、出来る限りやりたくないのだ)。

そんなAさんがソーシャルメディアで読んだ本を紹介していたので、その中でも特に思い入れが深そうだった、近藤康太郎『百冊で耕す』をkindleで購入した。kindleはなかなか良い。イギリスで日本の本を手に入れるにはこれしかないのだが、アナログの本ではどうしても飽きてしまう私にとって、これは最高の手段だった。本屋に行って買うだとか、そういうステップを踏まずとも、衝動で買い、衝動で読める。

それはともかく、その本は一言で「読書のススメ」だった。彼の文章や考え方も好きだ。わかりやすく、気取らない。物事のいい面も悪い面も捉えているのがいい。私はどんな物事でもーそれが残虐な人◯しであってもー長所、短所があり、それは状況や物事の捉え方によって変わるものだという事実を大切にしているからだ。

さて、その本には、古典を読むススメが書いてあった。古典を読む際の心構えや、どの順番で読むかなど。
私は全く本を読まない人だ。本が嫌いなのだ(、と
考えてきた。実際はアナログ本が苦痛であるだけだったのだと判明するのだが)。本が嫌いな癖に国語でそこそこ良い点数を取れてしまったのが不思議だったのだが、あれは持ち前の理屈っぽさが仕事したのだろう。


色々あるけど、まずは海外文学から


分野は海外文学を選んだ。哲学書、心理学書、日本文学、数学書、経済書…それらも読みたいのだが、海外文学を選んだのは、なんとなく知らないと損するような気がしたというシンプルな理由だ。ドストエフスキーの『罪と罰』は読むべきだとずっと思っていたし(親友のオススメの本だ)、その読書本を読み進めるうちに、これは読まなくてはという気になったのだ。

とりあえず『百冊で耕す』で言われた通り読んでみた。リストを50本、20世紀から19世紀、それ以前と遡り、21世紀のアンチノーベルに終着する。そこまで頑張れるか分からないのだが、著者曰く20世紀の本は準備運動であるので、まずは大怪我、最悪文学戦死者にならないよう、言われた通り始めた。

また、同時並行して読むのが良いらしい。著者は4冊同時に読んでいるようだが、私は3冊に決めて読み始めた。私は自分の素直さに自信があり、言われたことを実行する「能力」があると自負している。今回も著者を信じ、彼が信じる海外文学のカノン(正典)を信じ、(自称)芸術の造詣が皆無の読書嫌いが、海外文学に身を委ねた。


感想 めちゃくちゃ楽しいやないかい


私が最初に選んだ3冊は、
ヘミングウェイ『武器よさらば』
プルースト『失われた時を求めて』第一篇
ミッシェル『風と共に去りぬ』第一章

ちなみにこれらは日本語で読んでいる。言語の壁があってはダメだ。まずは一切の壁を取っ払える母国語で読む。

面白い。最高だった。なんだこれは。
初めて3日しか経っていないので、勿論読了なんて出来ていない。リストの上から12%、35%、20%読み進めた(kindle版ではこれが分かるところも気に入っている。アナログだと残った頁数を手触りでしか確認できなくて気が散る)。

しかも、ヘミングウェイの「武器よさらば」以外の2つは、この1冊で終わらない。続きが数冊に渡って刊行されている。読了だなんて、とんでもない。どおりで読書が人生の趣味になるわけだ、古典でさえ一生を掛けても読み倒すことは困難だ。時の流れを考えてみれば、当たり前か。

上下2つは、シンプルにストーリーが面白くて、どんなに退屈で本を開いても、一瞬でゾーンに入ってしまう。なるほど『百冊で耕す』の近藤さんが準備運動だと表現していたのも頷ける。


ハマったのは、ギネス記録を持つ最も長い小説
 

ところが、私がハマっていった1冊がプルースト『失われた時を求めて』なのだ。他2冊に比べるとストーリー性に欠ける。日常だ。今の所、只管日常が続いている。これを小説と呼ぶのか疑問なほどだ。何かあってほしい、そうであるべきだ、フィクションなのだから、と文句を垂れてしまいそうな勢いだ。

本編に入る前、翻訳者のまえがきがあった。これが非常に長かった。プルーストの世界だとか、彼は成人が眠れない様子を30枚に及んで書くとか、句点がない文章が10行以上に渡って続くのは稀ではないとか…。こんなことを読み始めに言われるもんだから、全くの読書初心者はビビってしまった。しかし、成人が眠れない様子をどのように30枚に渡って書けるのか、興味はあった(読んで、ああここのことか、と納得した)。

しかし、これが本当に最高だ。面白いかというと分からない。私は非常に楽しんでいるが、面白い小説なのかは分からない(ここで「面白くない」と言い切ってしまうことで浴びる批判と軽蔑を恐れて曖昧な表現にしているのではない、本当にこのような感覚なのだ)。
只管日常だ。だが、日常が細かい。

烏滸がましいにも程があるが、彼(物語の主人公と言うべきか)、私のようだ。日常のとある一部分を、他の例で表すのだ。その例は極めて芸術的である。日常に芸術を見出している、いや、日常と芸術の境目がないような、絵の具の異なる色が流れに任せて融合したりしなかったりしているような感じだ

私は灰色の小さな玉のうちに、実を結ぶには至らなかった緑の蕾の姿を認めた。
茎でできた壊れやすい森を背景にして、茎が金の薔薇のごとく吊り下げている花々を浮かび上がらせる薔薇色の、
あるいは月のように青白い、優しい輝きは、消えてしまったフレスコ画が壁面のどこにあったかほのかに明るくなっていることでわかるように、
菩提樹のさまざまな部分で「色つき」のところとそうでないところの違いをあらわすしるしであり、
それらの花弁が、薬局の袋を花咲かせる前に、春、幾夜にもわたって芳香を漂わせた花弁にほかならないことを私に示していた。

紅茶の菩提樹の花弁を、色褪せたフレスコ画に見出すなんて。この遠回しの表現、全く日常で触れない芸術なのに、すごくしっくりくるのだ。そうそう、そういう共通点あるよねと。私も生きててこの気づきを何度もしていること自体は覚えているのだが、何を思ったかということに関しては、少し頭に浮かんでは儚く消えてしまう。

私にはこんなに素敵な表現は出来ない。でも、どうにか自分の感じたことを言語化したいという情熱は持っている。どうにか「私の」「この」感覚を、出来るだけ正確に他者に伝えたいのだ。それで他者が自分と同じ受け取り方をしているかなんて分かる術はないのだが、せめてこちらは最大限の努力をしたい。母国語である日本語を喋っていても、言葉に詰まってしまうのはこのためだ。完璧に伝えたいと願ってしまう。これも完璧主義の症例か。

最近は分かりやすく、聞き手が要点を理解できる喋り方をする機会が増えているため、いつからか私の喋り方もそうなってしまった。雄弁だが、浅い。細部に宿る魂を取り除いてしまっているかのような話し方だ。誰かに何か技術的なものを分からせるには、そのように効率的な話し方の方がいいに決まっている。だが、あまり魅力的ではないと個人的には思う。よく出来たAI画像のように。

よく出来なくていい。完璧を目指した末の40点に美しさを感じる。ああ私は、こういう所に美を感じているのだ。荒っぽくて、不完全で、極めて命を感じる。私の中にも芸術的観点があったのか。小説がそれを浮き彫りにして、磨きをかけてくれるようだ。とにかく、プルースト「失われたときを求めて」は大好きだ。小説の中の主人公は、まさしく私なんだ。

始まったばかりの海外文学旅

というわけで、私の初読書記録はこんな感じになった。午前3時、衝動でこの記事を書き上げた。
読む順番とやり方を守っていることもあり、海外文学、非常に楽しんでいる。本当に楽しい。たとえ『失われた時を求めて』を読破出来なくても、コーヒーのように嗜めるのが嬉しい。最初に選んだ3冊でもうこんなに感動しているのだ。これが読書の旅というものか。1人旅とはまた異なる魅力がある。

これら海外文学リスト50をあらかた読み終わった後、私はどんな人間になっているのだろうか。もしかしたら、人間を愛せるようになるかもしれない。温かみのある私になっていたら面白いが、可能性としては低いだろう。主人公の考え過ぎなところや、恋愛において相手や自分の気持ちにさえも身を委ねられずに小賢しく考えるところ、これらは私だ。そういった人間のそんなところが、私は好きだ。

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