「志高く」バックナンバー⑨~花器が教えてくれたこと🌷~
こんにちは、志高塾です。
ヘッダの写真は、代表の長男(中学2年生)が豊中校で生けてくれたお花です。最後に全体の写真を載せているので、ぜひぜひご覧ください!
どの季節にもすてきな花が咲いていますが、とりわけ春の花は、世界を生き返らせるような力強さと鮮やかさを備えているように思います。
今回の「志高く」は、そんなことを考えながら再録しました。
Vol.158「花器が教えてくれたこと」(2014年6月10日/HP掲載)
生け花教室では、花瓶ではなく、花器と呼ぶ。
名称の違いに関して深く考えたことはなかったが、先日、「なるほど」と納得した。
「瓶じゃないものがあるからだ」と。平べったく、底が浅いものなどはそう呼ぶにはふさわしくないのだ。
何歳になっても、どんな小さいことであっても、自分で発見すると嬉しくなる。今度、生け花の先生に、私の解釈で正しいのか確認しようと思っているが、たとえ違っていたとしても、私が得た満足感は、ほぼそのままの形で残るはずだ。
まったく話は変わるのだが、息子と雲の観察をしよう、と昨日思いついた。1回だけ、とかではなく、1年以上のスパンで。屋外でスポーツをしているとき、休憩時間にボーっと空を見ていたら、雲の形が面白かったのだ。これなら、息子と雲についていろいろな話ができそうだ、と直感した。
雲は日常生活と密接に関係している。しかし、我々がそのように感じないのは、天気予報があるから。詩的なことを言うような柄ではないのだが、明るい空にいろいろな雲が広がっているのは、単純にきれいだった。
さて、生け花を習い始めて以来、私の生活に様々な変化が起きている。物理的なものの1つとして、花器の数が増えたことが挙げられる。
家でも、教室でも。それぞれ2つずつぐらいしかなかったのが、この2か月で、5つずつぐらいになった。ガラスのものもあれば、焼物もある。形も、サイズもばらばら。
買い足したのは、生け花教室から持ち帰った花にぴったりのものが無かったから。これまで、私が志高塾向けに週に1度ほど購入していた花は、既存の花器に合うように選んでいたが、そうもいかなくなったのだ。今回のタイトルが意味している内容を、既にお分かりの方もおられるだろう。
そう、花があって、花器があるのだ。花器があって、それに合う花を選ぶのではないのだ。
それが、今回私が伝えたかったこと。
短い花には、それにぴったりの背丈が低いものを使えばいい。ある程度束になったものであれば、それにぴったりの口が広いものを使えばいい。
枝を必要以上に切ったり、折角買ったのに花器に入らないから、という理由で処分に困ったり、する必要はないのだ。ぴったりの花器さえあれば。
生徒達と接しながら、子供自身の持っている良さを見落としているのはないか、と自身の感覚を意図的に疑うようにしている。
それは、私自身が揃えている心の中の「花器」にぴったりでない、という理由で、適切に評価できず、うまく伸ばせていない可能性があるからだ。
志高塾を始めた当初に比べると、私が所有する「花器」が増えたことは間違いない。一方で、今も「これじゃまだまだ足りないな」という感覚がある。
今の生徒達自身ではなく、未来の彼らにぴったりの「花器」はどんなものかとイメージして、彼らと接しなければいけない。
「将来のあなたには、これがぴったりだと思うんだけど、まだまだ花器の存在感に負けてるから、もっと花の数を増やしいや」
「将来のあなたには、これがぴったりだと思うんだけど、まだまだ花器の存在感に負けてるから、もっと花を大きくしいや」
と、期待を込めたメッセージを胸に抱きながら。
そして、彼らは、いつか、自分自身で、自分にぴったりの「花器」を探す。
松蔭俊輔