見出し画像

生徒の超力作(ビフォー)

こんにちは、志高塾です。

志高塾HPの「志高く」にて、高校2年生の生徒が「日本倫理・哲学グランプリ2024」に提出後、授業でさらに修正を重ねて磨きあげた作文を掲載しております。(以下のリンクからご覧いただけます!)

noteでは、グランプリに提出した作文、つまりHPに載せているもののビフォー版をご紹介いたします。読み比べて頂ければ、彼女がどのように考えを深めていったのか、あるいは、元々どれだけ深く考え抜いていたのかが伝わるはずです。この超大作、ぜひじっくりとご覧頂ければ幸いです。

テーマと生徒の超力作

テーマ

「環境破壊や戦争、格差の拡大など、地球の未来に希望はもてない。だから子どもは作るべきではない」という考え方についてどのように考えるか。

生徒の作文

 最近は環境保護がよく叫ばれるようになった。地球温暖化による影響や環境汚染が危惧されている。これによって人間や動物が絶滅する恐れがあるためだ。しかしこれは今に始まったことだろうか。例えば、マンモスが絶滅した原因は気候変動や人類の狩猟によるものだと言われている。人間の乱獲によって絶滅した生物や人間の介入によって破壊された生態系は枚挙にいとまがない。では何故今になって騒がれているのだろうか。それは環境破壊が地球規模になったからである。従来はどれだけ動物が滅びようが特定の地域の問題で済みどれだけ特定の生態系を破壊しようが他のもので簡単に補うことができた。現在は地球温暖化と形容されるように海面上昇は北極にも南洋諸島にも被害が及び、世界のあらゆる所で異常気象が起こっている。そしてそれらは現存種の大多数を滅ぼしかねない。これが環境問題が叫ばれる所以である。

 戦争や格差問題も同様だ。二点共に人間が存在する限りは必然的に発生する。人間も動物の一種であるから、争い合い強いものが上の立場につくのは自然なことである。今までもその繰り返しだったが、当たり前のことでもあり、そこまで悲観されなかった。それは自分達のコミュニティーの問題で終わっていた。しかし、大航海時代、産業革命に伴う植民地化を経て個々で独立していたコミュニティーがどれも繋がりを持つようになった。それにより世界大戦という大規模な戦争が勃発し、また一地域のことでも全世界に多大な影響を与えるようになった。また、格差は個人間の問題ではなく、地域間の問題として扱われるようになった。このように、今抱えている様々な問題は急に発生したものではなく、規模が拡大したことでとても重大な問題として浮上してきたものなのである。では、世界規模になることで何が不利益になるのだろうか。グローバル化は科学技術の発達と密接に結びついている。産業革命によって今までになかった技術を持った国々が他地域も支配するなどすることで、科学技術が全世界に広まった。生産効率が上がるだけでなく、医療や交通手段までも発達したため、爆発的な人口増加と人やモノの激しい移動で、世界は全て繋がっていったのだ。どんなに些細な事であろうと、大問題として全世界に波及してしまうようになった。そのために世界全体で解決しようとする気運が高まったが、一向に収まらない。この一つの理由としては、急速に進化をとげている技術に、人間自身が適応できていないことが挙げられる。人間は社会を形成して生きているが、それは他の動物と同じく、小規模なものだったのだ。血縁関係のない他人と関わることもあるが、大きくても地球のなかの一地域に過ぎなかった。ましてや、本当の地球全体について考え、早急に手を打てなかった。地球は人間にとって大きすぎたのだ。だから環境問題や国家的な問題や貧困問題に対して、最も有効な対策が何十年も見つからないまま、その間も技術は刻一刻と発達し続け、人類だけは置いてけぼりになっているという現状があるのだ。

 だから私はむしろ、人類は子孫を残していくべきだと考えている。勿論、今のままではどうすることもできないのに変わりない。しかし、人類は何万年もの間変わりゆく環境にその都度適応し、生き延びてきた。今こそ様々な課題に振り回されてはいるものの、長期的に見ると、自然の摂理に過ぎないのかもしれない。その意味で、今ここで存続を終わらせてしまうことは自然に反してしまっているのではなかろうか。私たちの子孫が上手くやっていくか結果的に滅びてしまうかは分からないが、そもそも子孫が残っていないと全ての可能性を絶ってしまう。この可能性こそが希望ではないのだろうか。現在は抱えている社会問題が大量でどれも一筋縄ではいかないもので、また現在の日本は景気が良くならず、税率ばかり上がるのもあり、未来を悲観的に捉えている人も多い。そのような人は全てを悪い方向に考えてしまい、希望が見出せない。しかし、本当にその人の未来に希望はないのだろうか。近代日本の哲学者三木清の言葉に次のようなものがある。

「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間  にとって生きていることは希望を持っていることである。」

今この時代に存在していることは運命であると言える。そしてこの運命について思いを巡らす時に必ず希望が生じるのだ。だから、人が生きているということと希望を持っていることはイコールなのだ。では、希望とは何であろうか。アリストテレスの言葉に、「希望とは、目覚めている人間が見る夢である。」という言葉がある。夢とは眠っている人間が見る夢であるが、ここでは目覚めている人間が夢を見ている。目を閉じてしまえば、必然的に現実は見えないが、目を開けると、現実が否応なく飛び込んでくる。現実と向き合いながら抱く夢、それが希望なのだ。

 ここまで子孫を残すべきだと主張してきたが、実際はどうなのだろうか。人口ピラミッドは先進国ほど子どもが少ない「壺型」に近く、発展途上国ほど子どもの多い自然な「富士山型」である。課題文の考えでいけば、先進国は豊かで都会的な生活、発展途上国は貧しく自然と隣り合わせの生活が一般的であるはずなので、発展途上国よりも先進国のほうが出生率が高くなるはずである。しかし、現状は全く反対のことが起こっている。先進国は元々「富士山型」であったのが、時代が進んで技術革新が起こり、豊かになると出生率が減少し始めた。これ以上豊かになることはないと悲観し始めたのだろうか。そうではない。寧ろ、科学技術の発達は著しく、近未来の生活に夢を馳せている人も少なくないだろう。生活が豊かになると考えも豊かになる。今まで主要な仕事は男性ばかりが担ってきたのだが、女性が進出しだしたのだ。男性と同じようにキャリアアップしようと考えた際に、従来の「寿退社」のような概念は邪魔である。また、子どもを残そうにも、産休・育休期間の間に他の社員達に遅れを取ってしまうという思いも拭いきれない。その結果、独身・子無し女性が増え、出生率が下がったのだ。先進国の出生率低下は未来への絶望ではなく、女性達が自分の人生に希望を見出したことによって起こったのだ。勿論、経済的な面で持たない選択をする人もいるが、それは未来に対してではなく、子どもを持つこと自体に希望を見出せないのである。その点、発展途上国の人々は貧しくてもたくさん子どもを産む。これは病気や飢餓などで幼い間にたくさん死ぬので、一人でも多く生き残るためにそもそもの母数を増やすやり方だ。この誰かは生き残ってくれるだろうという考え方は、未来に少しでも可能性の余地を残しているという点で希望であると言える。彼女たちは地球温暖化などを知っているのかは分からないが、貧困・劣悪な環境下でも希望を見出して子孫を残している。


いいなと思ったら応援しよう!