幕末の佐賀藩

【佐賀藩①】幕末最強の科学力?『佐賀藩』が本気がイかれてる

佐賀藩の業績として製鉄、天然痘種痘ワクチン、蒸気機関が挙げられている


・製鋼

製鉄については鉄を鋼にする「反射炉」が重要だが、歴史的には1860年代からベッセマー転炉、シーメンス=マルタン平炉がヨーロッパで導入されているから、幕末時点では反射炉はまだ世界史的にも最先端の技術だった。




・天然痘ワクチン

正確には人痘法は古くからアジアにおいて行われていたらしい。ただ、これには本当に天然痘が重篤化するというリスクがあった。エドワード・ジェンナー(1796年)の業績は、牛の牛痘の膿を用い、人間に安全なワクチンを用いたことだった*

*)厳密には牛痘ではなかったとのことで、詳細はwiki参照

また、日本への導入も佐賀藩以前に事例があるが、本格的に認められ普及したのが佐賀藩発のものだった。


・蒸気船

もちろん、それまでに佐賀藩にはいろいろな技術の下積みがありましたし、ペリー来航(黒船来航、1853年)以前にも蒸気機関や蒸気船、帆船の知識はあったでしょうが、計画して10年以内に実用的な蒸気船を作っているのは驚異的です…



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・アームストロング砲

こちらも、本家アームストロング砲が1854年の発明。ただ、製鋼技術はあったとしても、大砲製造には鋳造もしくは中ぐりの高度な技術が必要で、その技術があったとは思えません。実際は輸入品だったと考えるべきでしょう。実存する砲の金属成分を分析すれば事実は分かるのですが、それは行われていないようです。


佐賀藩・佐賀県の範囲

佐賀県の範囲は佐賀藩の領地と基本的には同じ。令制国の肥前国東部。

厳密には、唐津藩、佐賀藩の支藩である蓮池藩・鹿島藩・小城藩の3藩、その他にも他藩の飛び地や天領もあった。


龍造寺隆信の時代に龍造寺氏は領土を最大化し、肥前を統一した。しかし、沖田畷の戦い(1584年)の戦いで龍造寺隆信は有馬晴信・島津家久に敗北。



・長崎県

日野江藩(後の島原藩):長崎県島原市
有馬氏は島原地方を治めていた戦国大名だったが、有馬晴信は龍造寺隆信に臣従。しかし、沖田畷の戦いで再独立し島原一帯の領地を確保、日野江藩(後の島原藩)は佐賀藩とは独立することになる。


大村藩:長崎県大村市(西彼杵半島(西海市・長与町・時津町)も含む)
大村氏は肥前国彼杵郡大村の戦国大名。大村純忠(有馬晴信の叔父)の時代に彼杵郡一帯を支配する。その後、龍造寺隆信に臣従するが、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が敗死すると再び独立した。


平戸藩・平戸新田藩(佐世保を含む)
平戸松浦党の松浦隆信(1529-1599、1543-1568)は平戸地方を治めていたが、その後、北松浦半島一帯を治めるようになる。1565年に飯森城を落とし、佐世保一帯も支配。嫡子の松浦鎮信の時代に一時的に龍造寺に臣従するが、やはり沖田畷の戦いを期に独立。


天領長崎

その他:福江藩・対馬府中藩

  • 福江藩(五島列島)、五島氏

  • 対馬府中藩(対馬)、対馬氏


・唐津等

肥前国松浦郡は戦国時代には松浦党、特に波多氏が統治していたが、波多親の時代に竜造寺隆信に従う。しかし、やはり沖田畷の戦いを期に独立。秀吉の軍門に下るも、その後その怒りをかって波多氏は滅亡。


唐津藩
その後、唐津一帯は文禄の役で功績を挙げた寺沢広高に与えられ、関ケ原の合戦で東軍に就いたことから領土を安堵され唐津藩が成立した。




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