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【映画】『オッペンハイマー』
-はじめに-
週に一本というルール。
しかし、あくまで「少なくとも」ということで、熱の冷めないうちに、昨日の『ダンケルク』に続いてクリストファー・ノーラン監督作品を観た。
-鑑賞日-
2025/02/02(日)
-感想-
またしても教養的としての歴史の知識が乏しいことを改めて認識させられたが、ともあれ、「原爆の父」と呼ばれることになるオッペンハイマーの人生について知っていくことになる。
これは見終わってからの思ったことだけれど、そういった戦争期のとある人物の栄光や挫折、苦悩や葛藤を描いた映画として思い起こしたのは、『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』だった。こちらでも、生み出した技術をもとに、結果としてどこかに「死」を生んだことで苦悩していた姿が描かれていた。
冒頭からしばらくは、ノーラン監督の過去作『インターステラー』のラストの「謎」が明かされていくシーンを彷彿とさせるような映像表現が続いた。こういうところは「ああ、クリストファー・ノーラン監督の作品を観ているな」と思わせてくれる。
さて、印象的だった点について書いておこうと思う。
-オッペンハイマーとアインシュタイン-
オッペンハイマーとアインシュタインが池で会話するシーン。アインシュタインの去り際の表情には痺れる思いだった。
映画の本当に最後で、この時の会話の内容が明かされるけれど、アインシュタインの言葉にはなかなかに寂しい気持ちにさせられた。
「すべて許されたと肩を叩く。忘れるな。君のためじゃない。彼らのためだ」
そして、オッペンハイマーの言葉はこの映画のメッセージだったと受け取った。
「I believe we did.」(日本語訳だとなんだかここは伝わりづらかった)
-原爆を使うのか、そこにある傲慢-
「ヒトラーは死んだ。だが日本がいる」
「我々は未来を想像し、その未来に恐怖を覚える。だが世界は実際に使い理解するまで恐れない。世界が恐怖を知ったとき、我々の仕事は人類の平和を確実にする」
いくつか考え込んでしまうような言葉があったのだけれど、これらは非常に重たかった。
それらを言葉を経てからの日本への原爆投下に関する会議という流れ。思うところは多々あるけれど、少なくとも「科学者の傲慢」と「強者の傲慢」が強く出ていた場面であったし、それはやはり原爆について考えるときに忘れてはいけないものだと考える。
使った者の責任を示唆する場面がのちに描かれるけれど、割り切れもしないし、そのシーンはむしろ政治の怖さをひしひしと感じてしまって、なんともやりきれない気持ちになってしまった。
-実験と使用-
実験時、ずっと後ろでなり続けていたジリジリとひりつかせる音。不安が際限なく膨らんでいくのと同調するように音響が鳴り響き、爆発による音の消失、爆風とともに現実に戻され圧倒的な暴力に晒される。
音響の使い方が流石に巧だな、と唸ってしまう。まんまと緊張感を操られたように思う。
さらにそのまま、日本への原爆投下。
喝采を受けるオッペンハイマーの周りの世界が揺れる様などの表現がなんとも言えない。彼の中で、あるいは世界で、何かが決定的に壊れたのだと思った。
-そして、、、-
最後の問答は、ノーラン監督らしさ全開の演出だったなと思う。
勢いに押されて押されて押し切られて、いつのまにか、気づけばラストシーンに至っていた。
ラストシーンは、先ほども言及したオッペンハイマーとアインシュタインの会話だったけれど、アインシュタインのキャラクターがこの映画の中で一番心地よかったかもしれない。
なんとも複雑な気持ちにさせられた映画だった。
-あらすじ-
第二次世界大戦下、アメリカで立ち上げられた極秘プロジェクト「マンハッタン計画」。これに参加したオッペンハイマーは、優秀な科学者たちを率いて、世界で初となる原子爆弾の開発に成功する。しかし原爆が実戦で投下されると、その惨状を聞いたオッペンハイマーは深く苦悩するようになる。やがて冷戦がおこり、激動の時代の波に、オッペンハイマーはのまれてゆくのだった―。
(引用)
-情報-
2023年製作/180分/R15+/アメリカ
原題または英題:Oppenheimer
配給:ビターズ・エンド
劇場公開日:2024年3月29日
(引用)