ポケットから、蝉
オチから書いてしまうと、父のポケットに入っていた蝉に触ってしまい、半狂乱になった小学生のわたしの話である。
母方の祖父の葬儀と納骨が行われた日のこと。
わたしは小学1年生だった。
そして、虫には触れない子供だった。
お寺の墓場で、まだ色々な儀式の最中に、父がわたしに言った。
「お父さんの右のポケットにいいものがあるよ」
子供なら、長時間の弔いに飽き飽きしてしまうのは当然である。
そして、子供なら、【いいもの】でお菓子を連想するのもまた当然である。
『退屈してるわたしに、
お父さんがお菓子をくれるんだ』
そんな期待で胸いっぱいのわたしは、素直に父のポケットに手を入れた。
その途端、
ブブブブブブブブブブブブブブブ!!!!!!!!!!
とポケットの中で何かが暴れまわった。
生きているアブラゼミが入っていたのだ。
虫が大好きな子供ならともかく、繰り返すけど、ポケットに手を入れたのは、虫に触るのが苦手な子供。
っていうか、虫の好き嫌い以前に、そんな状況になったらひっくり返るくらい驚くのもまた、人として当然である。
半狂乱で悲鳴をあげて、
「いらない!!!!
捨ててきて!!!!」
と小学生のわたしは激怒した。
おそらく父は、簡単に手が届くところにいた蝉をとらえ、子供なら虫は喜ぶに決まっているとの思い込みにより、わたしに与える、または見せるつもりで、こんなことをしたのだろう。
この時の父はただの参列者ではなく、納骨の作業を手伝わされており、何かを持っていて両手がふさがっていた。
だから、ポケットにいいものがあるよ、と手を入れるようわたしを促したのだ。
今思えば、わたしに蝉を与えようとすることの是非よりも、そんな作業中に一体何をやってるのか、という話である。
なお、わたしが小学2年の頃、父がどこかでクツワムシを捕まえてきたことがある。
虫かごに入れられ、わたしの部屋の外にあるベランダに置かれたクツワムシは、夜中にガチャガチャガチャガチャとけたたましく鳴いていた。
眠れなかったわたしは、翌朝父に「捨ててきて!!!!」と激怒した。
ガチャガチャガチャガチャくつわむし~♪という歌のフレーズを体感した一晩だった。
*
蝉が鳴けば思い出す、とばかりに、単純にこの出来事を書きたいのではない。
わたしは一人っ子なので、父のことも母のことも、語れる子供はわたしだけである。
この二人と家族として過ごした記憶を、兄弟姉妹の誰か共有することができない。
そのこと自体は、たいして気に留めてはいない。
ただ、こうして書くことも供養になるんじゃないかと、ふと思ったのだ。
本来の供養とは、亡くなった人の冥福を祈ること。
それだけでなく、何かの折に思いを馳せるのもきっと、供養になると思った。
その人が生きていた時間を思い出し、確かにそんなことがあったのだと確認できるのは、わたしだけ。
そして、こうして書いた方が、わたし一人の脳裏で完結させるより、残像を少しでも描けそうだから。
アブラゼミにしろ、クツワムシにしろ、山に囲まれた田園風景育ちの父にとって、自分が幼い頃に遊んだ最高のおもちゃだったのかもしれない。
それを同じように、子供のわたしが喜ぶと単純に考えたのだろう。
父なりの愛情ゆえの行動だったと、今は理解できる。
そして、こんなふうに故人を語ることが、わたしになりの感謝と愛情表現である。
書いていて気が付いたけど、今はまさに9月じゃないか。
この時に弔われた母方の祖父が亡くなったのは、確か9月1日。
もしかしたら、父のことよりも、祖父、そして母方のご先祖様に感謝を捧げるようにと、スピリチュアル的な何かが働いているのかもしれない。
母方の祖父のことも書きたいけれど、
文字数が長くなるのでまたの機会に。
ここまで御覧くださった皆様、
貴重なお時間ありがとうございました!
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