見出し画像

「匂」

◇生活の中から消えたもの。その一つに「匂い」がある。

そんな事を東京にある酒場からの帰り道で考えた。海外に行くと色んな香りがしてくるが日本ではあまりそれを感じない。清潔であるというのも一つの理由だと思う。

そういえば昔は夕方になると家々から夕飯を作る香りがしてきた。

「あの家はカレーだな」
「魚を焼く匂いがするな」

通っていた小学校は周りを住宅が囲んでいる立地だから色んな家の色んな匂いがしてきた。当時はそれに腹を空かせながら帰路に着いたものだった。

つまりそれが人が生きている「生活の匂い」だった。


◇匂いがなくなった一つの理由に高気密住宅の普及があると思う。ここ2〜30年を経て建っている家のほとんどはそれになった。

排気はあるにせよ外を歩いても街から匂いがあまりしてこないのは技術の進歩かもしれない。

また家の機密性が高いという事は外部からの匂いが入ってこないという事でもあるから「匂い」を感じにくい構造を街自体が持っているとも言える。

境界線としての塀がある家は減ったが、代わりに家は高気密となり、住宅はより外部から遮断された空間になった。

そういった空間にいれば人と人の繋がりは希薄になるのが容易に想像できる。それは不寛容な社会になった理由の一つかもしれない。

近所付き合いなんて面倒なだけという事でもあり、また近所付き合いがなくても生きていける社会になったとも言える。

そう思ったかと思えばSNSでは #つながりたい なんてハッシュタグが流行ったりする。

繋がりを切ったり求めたり、人間は不思議な生き物だと思う。


◇「匂い」と共に無くなったものに「音」がある。

今では生活音で苦情が来る時代。生活すれば必然としてなる「音」があるのはけしからんという事らしい。子供の声が騒音と言われる時代はどう考えても異常だと思う。もはや「生きるな」と言っているに等しい。

しかしそういう事を言う人がいるのもある程度の理解はできる。家が高気密だから音は漏れ聞こえる事がなく住宅密集地でも生活音は聞こえてこない。

無音がデフォルトになったから逆に有音が目立つ様になった。

子供が騒ぐ声、笑い声、怒鳴り声、夫婦喧嘩、調理の音、掃除の音、人々の話し声。

それらが無くなり人がいるのか、いないのかも分からなくなり、匂いも消えて、街から“人々の生活”の気配は薄くなった。

生活のリアリティがなくなりのっぺりしたプラスティックみたいな街になった。

だから、ここは此の世なのか?彼の世なのか?そんな思いに駆られる事がある。

もしかしたらこの2つは同じなのかもしれない。

無論、それは死んでからでないと分からない。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?