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【短編】ザドキエルの凍結【#05】

 大学時代の友人が死んだ。

 正確には、彼が死んだという親戚の投稿がFacebookで流れてきた。いつものようにSNSアプリを巡回し、Facebookを立ち上げた時に不意に出てきたその投稿は、転職した先輩の起業ポストとNGO団体の活動報告のポストに挟まれていた。

 死因等は特に書かれておらず、彼が先月の中旬に亡くなったこと、葬儀は親類だけで執り行われたことだけが淡々と綴られていた。

 正直、実感が湧かなかった。

 いつも目にするSNSに溢れ返る情報の濁流の中にぽつりと落とされた雫のような一滴が、どれだけの波紋を広げるというのだろう。悲しくなかったといえば嘘にはなる。大学時代よく昼飯を食べた仲だし、履修登録にも付き合った。飲みにも行ったし、遊びもした。お互いに就職してからしばらくは連絡を取ったり愚痴を吐く会を開いたりもしていた。

 ただ、3年目になって仕事が忙しくなり始めてからは連絡を取る頻度も減り、年に一度会うか会わないかになっていた。それでも、Instagramではたまに見かけていたし、彼女とよろしくやっている姿を見て静かにいいねを押していたから、特段久しぶりという感じもしなかった。

 そんな彼が、死んだ。投稿から2日経っても1週間経っても、1ヶ月経っても現実味はなかった。彼はこの世から消え、その肉体も魂も、もうどこにもいない。どこに行っても彼に会うことはできないし、その声を聞くこともジョッキグラスを打ち鳴らすこともない。そんなことは分かりきっているはずなのに、どうしても地に足がつかない奇妙な浮遊感があった。


 そうして日常生活を送っているうちに、はたと気づいた。彼の死は、もう自分の中では芸能人や有名人の死と同一になりかけていたのかもしれない。芸能人の訃報が駆け回ると一時的にショックは受けるがすぐに波が穏やかになるように、遠く離れた国で子供が何人も虐殺されたスクープを見て怒りを燃やしても二日後の夕食時にはそれを忘れているように、知らない間に彼との距離が開いていたのだ。

 それに気づいた時、急にゾッと怖くなった。自分がしていたことは、近しい人間の死すら日常の一端に矮小化し、あまつさえ一時的なコンテンツに変質させようとすることだったのではないか。豪雨のように降り続ける情報の只中で、その細部に目を向けることを放棄していた自分は、気づかぬうちに自分自身すら電子化していたのかもしれなかった。冷ややかで、機微のない、無機質な姿に。


 スマホを手に取り、彼の彼女のSNSアカウントを開いた。素早くDM欄を立ち上げ、彼に線香をあげたい旨を送った。返信はすぐにきた。簡素な文体だったけれど、自分の申し出に喜んでいるのがわかった。


 忘れちゃいけないことだった。友人の死などもってのほかだ。彼の死を他人事として矮小化してしまっては、自分が死んだ時に誰も悲しんでくれないし、きっと彼も後悔するだろう。


 彼の死を忘れないよう、僕はスマホのスケジュール帳に友人の名前を打ち込み、その横に「命日」と書き込んだ。当然、リマインド機能を年単位でオンにして。


 これでよし、と小さく呟き、僕は彼の実家へ向かった。

 

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