読書記録:『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち/飲茶 https://www.amazon.co.jp/dp/4309414818/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_jVGaEb0M5CJ8Q

西洋との決定的な違い

”哲学者”と聞くと大体ソクラテスとかピタゴラスとかアリストテレスとかなんちゃらスを思い浮かべることが多い。そういえば東洋人の哲学者って聞いたことが無いなとこの歳になって気づいた。東洋の場合は哲学者ではなく”思想家”と呼ばれることが多いようだ。

ヤージュニャヴァルキヤ、釈迦、龍樹、孔子、墨子、孟子、荀子、韓非子、老子、荘子、親鸞、栄西、道元

西洋の哲学者達が31人だったのに対し東洋は僅か13人。約3分の1の数にも関わらず本の厚さは西洋編とさして変わらない。

これは東洋哲学の説明し難さが故だ。

西洋は基本的に「神が存在する」ことから始まって「神なんていないのでは?」というところへ辿り着くが、東洋はもう初っ端から「無」で始まっている。

西洋では哲学は人々を良い方向へ導くためのものだったが、東洋は違う。そもそも人とは何なのか。”私”とはなんなのかという滅茶苦茶中二病全開で始まっている。

西洋が外側の世界を理解しようとしたのに対して、東洋は徹底して内側の世界、自己というもの、ATフィールドの中を探っている。探って何になるんだよ、という話だがそんな話ぶっちゃけていえば全ての学問に言える話だ。宇宙や深海の謎が解明されたからといって私達の生活が大きく変わるわけでもなし。人間はそういう才能の無駄遣いみたいなものが昔から大好きだったというだけだ。

”私”は”無”である?

一番最初に登場する滅茶苦茶発音しにくい名前のヤージュニャヴァルキヤという人物、今回この本を読んで初めて聞いた名前だった。

たまたま私は同時進行で脳科学についての本を読んでいたので、わりとすんなりと東洋哲学の考えが頭に入った。

”私とは何か”という問いは非常に脳科学と密接な関係にある。

そもそも”私”とは何か。”心”とは何か。”魂”とは何か。

私は”魂”のことが知りたくて勉強を始めた。しかしそこで”心””私”についても知る必要が出てきたので、哲学の本を買ったのは全く別の理由からだったが読んでよかったと思っている。

”私”とは何か。”自我”とは何か。

紐解いていけばそんなものは存在しない。

意識というのが何か未だに明確な定義がなされていない。

我々のこうした思考、今こうしてこの文章を書いている私、読んでくださっている方々、その意識はどこにあるのだろうか。分解していけば脳内のニューロンなどによる電気信号と化学物質の分泌によるものだ。ただそれだけ。

何を言っているのかわからん。と思われると思う。多分脳科学の本を一緒に読んだ方が確実にわかりやすい。

私という意識がある。私は私の意志で行動を決定し行動を開始するが、そもそもその行動を考え決定しているのは脳内の電気信号であり、この電気信号や全身と繋がっている神経回路は一方通行でなく相互関係にある。下から上へ伝わるだけでなく、上から下にも伝わっているのだ。「これがしたい」と思って私達は行動するが、そもそも「これがしたい」と考えているのはどこなのか、という問題になる。実際「したい」と考えているときには既にその事は少なくとも脳内でシュミレートしているはずだ。想像で自分はその行動を行うが、その体験がなくとも想像できるのは今までの体験や外部からの情報によるものだ。外部から刺激を受けて「これがしたい」と思った場合その「したい」という意志は脳の中枢でなく別の部位である可能性がある。「したい」と思う事自体が既にフィードバックであり、発端は最早どこかわからない。

この説明を読んでもおそらくよくわからないと思う。

飲茶先生のわかりやすいところはガンダムで東洋思想を例えているところだ。

ガンダムに詳しい人間がいたとする。彼はガンダムで例えれば全ての事が理解できた。そんなに理解できるならガンダムに例えなくても理解できるはずだ、と周りの人々はガンダムに例えることをやめさせようとするが、彼はそれから離れられない。「ガンダムに例えないで物事を考える事をガンダムで例えて言うと――」なんて言い出す始末。

そんな彼がある日悟りを開いた。彼はこう言った。

「俺がガンダムだ」

どこの刹那・F・セイエイだよ。でもこういうことなのである。

ガンダムが我々にとって言葉だ。

私達は言葉で物事を区別し分別しあれこれに名前をつけ現象にまで名称をつけそうして世界を理解している。けれどその名前や名称はこちらが勝手につけたものだ。本当はそれらに名前などない。区別などない。分別などない。全部が全部「ただそう在るもの」に過ぎない。

私達が災害に恐怖を覚えたり、悲劇を見て感動したり、喜劇を見て笑ったりするのは全てそういうものに対してはそういう反応をするように脳が仕組まれているからだ。全ては脳のこれまでの体験と情報に基づいた反応でしかなく、そこを取り去ってしまえば後に何が残るだろうか。残ったとして、それが”私”だと言えるだろうか。

”私”の探求はまだまだ始まったばかりである。

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