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のらくろ

「ウミさん、生きてます?」

目を開けたら、目の前に派手な服が。ゆったりしたデニム地のサロペット……アレックスが不敵に微笑むメンズのTシャツ……ジャミロクワイしか被らないような帽子……。

「夏目雫の経歴、洗い終えましたよ」

僕は身体を起こす。柔らかい地面……僕のベッドだ。知らない天井では無い、慣れ親しんだ天井……僕の部屋、目の前にいる女性はリク。

「何でここに」
「玄関開けっぱなし」
「今日何日だっけ」
「今日は昨日の次の日です。顔洗った方がいいんじゃないっすか」

洗面所で鏡を覗く。鼻と頬が青黒く腫れている。額には疎らな瘡蓋が。多分、僕は昨夜シャワーを浴びていない。それどころか寝巻に着替えてもいないらしい。不意に頭部に違和感を感じる。触れてみると、そこには確かな瘤があった。僕はその鈍い感触を確かめながらリクに声をかける。

「珈琲飲む?」
「飲む」

不意に生真面目な鳴りが六畳間に響いた。リクがターンテーブルを回したのだ。アート・ファーマーのカルテット、端正なトランペットが瘤付きの脳を泡立てる。

「悪いけど、音量下げてくれない?」
「そんな煩くないでしょ」
「昨日、多分だけど、殴られたんだ、夏目雫に。空のビール瓶か何かで、頭を。だから妙に響く」
「殴られた?どうして」
「発破をかけた。それが功を奏し過ぎた」

リクは手に持った僕の漫画、のらくろを乱雑に放り出し、眉間に皺を寄せた。

「ビール瓶で殴ったら普通死にますよ」
「普通は普遍じゃない」

僕は陶器のドリッパーにフィルターを敷き詰める。輸入品のタイ産のコーヒー豆を手回し式のレトロミルで荒く挽く。この音は脳に不快に響かない、良かった。

「……ウミさん、自力で帰って来たんすか?」
「覚えてない」
「被害届は」
「出すメリットが無い」
「ウミさん、頭おかしいっすよ。もとからですけど」

僕は沸いたケトルのお湯をドリッパーに注ぐ。『の』の字を描くように、丁寧に、繊細に。この過程に漂う香りが僕は一番好きだ。

「でも収穫はあった。今、正に現在、夏目雫は『カオリ』と『野村香織』を同一視しているみたいだよ」
「ウミさん、そんな分かりきった事を知る為に殴られたんすか」
「僕は分かって無かった」
「まともな想像力があれば普通分かりますよ『野村香織』から『カオリ』は作られたんだから。当たり前でしょ」
「僕が一番理解出来ない言葉は『当たり前』だ。最も危険な言葉も『当たり前』だと思ってる。『普通は』とか『皆が』とかも同様だ。考える分にはまだいい。だがそれが行動の指針になった瞬間、人間の想像的個性は死滅する。だから口に出すなら慎重であるべきだ。人が最も影響を受ける言葉は、結局自分の言葉だからね。基本禁句に設定した方がいい」
「ウミさんは禁句にしてるんすか」
「当たり前だろ」

言うとリクはのらくろを僕に投げつけた。それは僕の手元に当たり、ケトルのお湯はまき散らされ、ドリッパーはひっくり返る。見たところ、台所が大惨事だ。僕の足も、多分火傷してる。頭痛より悪化する気がする

「普通、怒りますよ。こんなことされたら。ウミさん、イラっときました?」
「いや、ただ興味はある。何故突然こんなことをしたのか」
「病院行ったら教えたげますよ。精々そのイカレタ頭を治してもらうんすね」

言い残し、リクは玄関から出て行った。珈琲の豊かな香りを部屋に残して。足が熱い。そもそも何故彼女は家に来たんだ?分からない。

とにかく、僕は生きているらしい。床にへばり付いたのらくろは潤いに満ちている。陶器のドリッパーは生きている。アート・ファーマーは亡くなっている。それでも僕の部屋で演奏を続ける。僕は耳を傾け、珈琲の泉に這いつくばった。僕は生きているらしい。ほんのり赤みを増していく足の甲が、ほんの少し愛おしく感じた。

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