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鹿田の長い午前(「午前・午後シリーズ①」)

一足早く師走のようなひと月だった。終わらぬ夏に発狂し、桜の騎士たちに対面し、しかし余計なことに仕事までピークをきたし、てんやわんやでnoteのことなどすっかり忘れていた。

まあ、正しくは、忘れたことにしたかった。どうも新しいものごとに適応するのに莫大なエネルギーと時間を費やす必要のある僕には、片手間が難しく、またそんな中で楽しく記事をかける気がしなかったのである。てなことで2年めにして等々1ヵ月、noteを白1色に塗りつぶした。

牛丼が届くまでの間のリハビリ文章の記事から、あそこからひと月空いているので、僕の文章欲は僕というキャパシティを突き破り、味噌蔵の中の活字中毒者如くあることないこと支離滅裂をnote上にのたくり回して、解読不可能な記事となることは最早必死である。されど僕の記事の中心にはいつも無意味がのさばっている訳で、では果たしてその支離滅裂の狼藉はいつもの僕の文章となにか特異な差異があるか?

みなさん、観物みものである。
てなことでどうもお久しぶりです、文章エゴイストこと鹿田です、よろしくね♪

いまひと月ぶりに新明解類語辞典をひらき、その中に顔を埋め目を閉じている。両の頬に当たる左右のページの冷たさと、懐かしい匂いが居心地いい。辞典にも「ただいま」とらしからぬ声掛けをし、自身に対する共感性羞恥によって己に何かしらのリセットを試みようとしている。ああ、いつであっても辞書に顔をうずめるという行為は上級の精神安定作用を与えてくれる。皆様もどうぞ試して下さい。
ま、辞書愛用家の中には(言わずもがな)とこっそり心のなかでつぶやく人も少なくないはず。だとしたら恥ずかしいことじゃない、『辞書に顔を埋め隊』として、鹿田とともに活動していこう。集団とは属すだけで安心したり、心強く感じられるものだから、『辞書に顔を埋め隊』に属したからにはいつの日か、自身を持って日の下で辞書をかぶることが可能になるはずだ。その時開放される抱え込んだ背徳感は、あなたの人生に素敵な影響を与えることでしょう。

今一度今度はより集中して辞書で顔を挟めば、その両頬の心地良き冷感と、刻まれたインクの匂いは、僕に素敵な、そして少し懐かしい想像を与えてくれる。

『夏の平日』、『午後』、『布団の中』、『微熱』、『非日常』、『遠くで聞こえるこどもたちの笑い声』

どこから抽出されたか僕にもわからないその想像は、けれどもう少し目を閉じてみれば

『子供の頃の夏風邪』、『或いは保健室で休んでいた記憶』、『或いは昼休み』、『図書室の日陰地べたに腰を下ろしてワクワクして読んでいた児童小説のハードカバー』、『その頭上で優しく揺れる夏の午後のレースカーテン』、『静けさ』、『時折吹き抜ける風にゆれる木々のざわめき』

そんな小学校やその他学生時代の、『夏の午後の図書館』を彷彿とさせる。そう思って三度みたび辞書に顔を埋めれば、すーっと、心の奥の青空を、銀色にきらめく小さな飛行機が1機、音もなく飛んでいく映像がみえる。僕はこどもの頃、空が大好きだったので、暇があればよく見上げていたものである。僕のその時の集中力は大したもので、時折その奥の宇宙まで覗くことができたし、その宇宙から僕自身を俯瞰することも可能だった。けれど宇宙より近いはずの小さな銀色の粒の飛行機が遠くて、あそこに100人近い人が乗っていて、また僕たちの存在には気づかない、気づけないということが不思議でならなかった。

そして思考のパターンはルーティン化し、こうして存在を認識したのに、一方通行だったり、或いは一生すれ違わない、そんな人がほとんどで、それは逆もしかりで…
そんな考えに至ってはいつも、夏空さえ透けるような途方もない虚しさを子供ながらに感じていたのである。

少年詩
黝い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡っていた。
地平の果に蒸気が立って、
世の亡ぶ、兆しのようだった。
麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だった。
翔びゆく雲の落とす影のように、
田の面を過ぎる、昔の巨人の姿―――
夏の日の午過ぎ時刻
誰彼の午睡するとき、
私は野原を走って行った……
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めていた……
ああ、生きていた、私は生きていた!

中原中也 少年詩

ちょいと間に詩をはさみアイキャッチとする。
僕は今年の夏そんなわけで詩もほとんど作らずおわってしまったが、その代わりに素敵な出会いがあった。それがこの詩である。

僕はこれでも詩が好きなので、有名な詩は一通り目にしているが、この詩には今まで出会うことがなかった。中也自体も好きな方だったので、本も買って読んだりしていたのだが、かなり昔のことなので忘れてしまったか。しかしこんな僕にフィットする詩を忘れるとは思えない。人はその時の心象に被るものに目が付くものだが、僕は一貫して夏バカであることは確証をもって言える事実である。
でもまあ、結果オーライだ。

僕の伝えたい、誰かと共感したい”夏の素敵”が、僕みたいに回りくどくせず、素敵に表現している。ああ、ホントいい詩に出会えたなあと心の底からしみじみ思った。少年詩というタイトルだけあって、表現や、夏の受け取り方がまさに少年ぽい。中也がいくつのときに書いた詩であるか定かではないが、『少年詩』というタイトルから、多分大人になってからの作品ではないかと察しが付く。僕の理想である。
僕は失った夏を再び手にすることを原動力としてこのnoteや詩の活動を行っているが、果たしてその行為や現状維持に満足していないかと、ふと我に返らせる力と魅力がこの詩にはある。くそ、羨ましい!

てなことで閑話休題。
と思ったがちょうどお昼なので一旦ここで切らせて頂く。

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