見出し画像

妄想日和

年末である。定休日と重なりなんと7連休である。とはいいつつも今年の初め頃にとある理由で2週間という大長期休暇を満喫したので感極まる程でもない。ま、その理由をここで語るのは野暮というもの、興味のある方は今年の4,5月頃の記事を漁って下さいな。

鹿田です、よろしくね!

しかしnoteとはいいもので、その元々の気質も合わせぐうたらに染まりそうなこの連休に、ぴりっと背を伸ばすタイミングになり得る。せっかくなので連休中は連日投稿してみようかな、など連休初日の浮かれ具合をそのままに表した目標を掲げた。きっといつもに増して酔いの回った文章になろうが、このめでたき年末年始においては劣るとも勝らん。騒ぎに騒ごうではないか。月フェステバルのあの日から、二次会会場を閉じたことは1度もございませぬ、さあ宴、宴じゃあ!

Twitterでは呟いたが昨日は仕事納めということもあり、贅沢に銀のさらを上司におごってもらった。たらふくの至福に包まれた鹿田はその時すでに、連休に片足どぼんと突っ込んでいたに違いない。ああこれがお茶ではなく、酒かびーるであったならと思いつつも連休を前に無敵となった鹿田の煩悩は表情筋をここぞとばかりゆるめ、にたにたと気持ち悪い笑みを晒しながらズズッとそれを飲み込んだ。また来年こそは、新年会は難しくとも暑気払いくらいは開けるようになりたいねえと希望的観測を共有し、最後によくわからぬが1本締めをしようということになり、よーっと気持ちよく手と手を合わせたのである。

今日は遅い朝に起きてだらだらとすごし、寝ながら「カキフライが無いなら来なかった」を読んでいる。プロと素人の違いは一体何なのだろうと考えるが、少しでも頭を使うことに対して、我が脳は警告音を鳴らす。「ガーガー、それ以上は受け付けません」そしてまた一眠りするのである。

いつでもねられるってすてき

直近の鹿田の自由律俳句だが、残念ながら季語がない。そもそもだらだら思いのままかけるnoteの方がはるか敷居は低いのである。書きたいことを書いて、スポーンと投稿し、万が一どうしても気になる誤字脱字があれば舞台裏からそっと直せばいいのである。俳句や短歌となるとそうは行かない。文章的作品は、文字数が少なくなれば少なくなるほど、図々しくのさばる。作品としての自己主張が激しくなるのである。いったい誰の説だと問われれば言葉に詰まる。鹿田の主観的理論でしかない。

適当を適当たらしむ鹿田である。それに関しては来年も変わらず遂行していく次第だ。鹿田から適当を取ったら何が残る?夏とて、適当のない鹿田など愛想をつかしどこかもっとアホな人を探し旅立ってしまうだろう。月とて、とうとう至ったかと名残惜しむことなとせず冬の新月如く冷たい視線を一つ流し、これきりと、せっせ一人で飲み屋街にいってしまうに違いない。適当とは鹿田を鹿田たらしむものでもあるのである。えへんっ!

夏に無敵の鹿田であるが、連休に突入した鹿田もまた厄介なほど無敵である。カーテンというカーテンを締め切り、エアコンの温度を程よく上げ、毛糸の靴下に腹巻き、そして半纏を羽織れば、脳内では完全なる常夏の世界ができあがる。邪魔するものなど何一つ無い、せいぜい尿意くらいなものである。食欲とて、ビールとつまみさえ連休分準備しておけば問題はない。さあ、素敵な寝正月ライフを楽しもうではないか!

人々は言う、「馬鹿につける薬はなし」「馬鹿は死んでもなおらない」結構結構。僕は夏バカという自ら付けた二つ名に自負している。マイノリティがなんであろうか。多角的に見ればみんな何かしらはマイノリティな部分があるのである。そもそもマジョリティという言葉に含まれる負の、諸悪の根源は、理解し得ないものに感じる恐怖を「」という言葉に変えて思考を止めては「ねー」とお互いの顔を見つめ合う悲しき傷の舐め合いではないか!

ああ、もっと世界に夏バカが増えればいいのに。寒い冬にこそ見ているこちらまで汗を書きそうな、夏の記事を読みたい。レポートでも、散文でも、詩でもなんでもいい。冬に夏を招き入れ、再び地球を縦断する地球大盆踊りを開催したい。

したいなあ。

と、ふと外を見るとやはり、そこは真っ白に埋め尽くされた、とある世界なのである。







いいなと思ったら応援しよう!