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雲に染まる

自分が吐いた息と外気の境目が分からない。うんざりするような6月半ばの湿度を、冬の乾ききった季節にどうにか運ぶことはできないだろうかと亮介は何度考えたことだろうか。

もやもやしているのはこの気温だけではなかった。大学卒業後に就職を決めたアパレル用品店で働き始めてちょうど一年が経ったあたりから、会社の売り上げが著しく悪化し始めた。従業員の働き方を改めてプライベートの充実を図るという社長の文言により、全国で店舗での人員を削減が始まった。

亮介が働いている店舗も例外ではなく、入社した頃より数割収入が減った。今の働き先に就職した理由も大義名分を抱えて決めたという訳ではない。今までのアルバイトでも洋服を扱っていた小さな雑貨屋だったし、服を見ることは嫌いなことではなかったから。そんな今の若者らしい何となく漠然としたところである。

リーマンショックを経験した働き盛り世代の方からしたら、これだから最近の若者は、というテンプレートをそのまま引用できそうな熱量の無さだと思う。そんなことは知ったことではないが、現代の若人(わこうど)を代表して謝っておこう。

大学の友人からは早いところ転職しなよと勧められるも、特にやりたいことがあるわけではないので現状に何も変化はない。時々転職サイトを見て、退職の手続きって面倒だと毎回思ってアプリケーションでゲームを始めている。
冷やかしで応募した「未経験募集!!バイリンガルの通う幼稚園であなたの英語を使いませんか?」という企業に登録をして、数分でお祈りメールが届いた。本当に募集しているのかどうかは定かではない。

「お前はもっと輝けるステージがあるって。まだ周りがそれに気付いてないだけだって。」

大手メーカーに運良く滑り込んだ大村は、飲みの場でだいぶ酔いも回った頃に声を荒げていた。お前には1番言われたくないと心の中で呟く。彼は大学の授業にはほとんど出席しない惰性な学生であった。試験の前には友人に学食を奢るという姑息な手段によってノートをかき集め、どうにか単位をパスしていた。こんな学生になんの需要があるのだと思っていたが、今や月給は数万の差がついてしまった。社会は大いに不平等である。

自宅待機というある意味では部分リストラといった日が増えている最近は、専ら早起きするようになった。5時半起きである。初老とタイマンを張れるという自負はある。早起きは三文の徳とはよく言うが、そんな綺麗な心掛けではなく、今後の自分の将来事を考える習慣が知らず知らず染みついていた。これがどうやら睡眠を遮っているようだ。

少しでも疲れたら眠れると思い、数日に一回のルーティンとして近隣の河川敷を散歩することにしている。中年のメタボ予備軍のサラリーマン脱帽の所行であろう。もうゆとり世代などと言われてたまるか。散歩中は少なくとも余計なことを考えなくて済む。これは一種の現実逃避だと思ってはいる。OLが自分を肯定する為に行うヨガと一緒だ。日課を作ることで自分を自分で認めたがる浅はかな自己満足である。

もそもそと布団から出て手短にシャワーを浴びる。なんとなく付けた朝の占いは、最下位の魚座のラッキーアイテムの画面まで進んでいた。亮介は牡羊座なのでビリは免れたことに意味もなくホッとする。学生時代にサッカーをしていた頃のプラクティスウェアに着替えて散歩の支度をする。Tシャツは現役時代の憧れであった背番号18のメッシのユニーフォームだ。散歩とはいえ、このうだるような蒸し暑さなので、家を出て数分歩き始めただけで汗が滲み出る。

毎回4キロ程の同じコースをだいたい40分ほどかけて歩いている。泉橋(いずみばし)と要橋(かなめばし)という二つの橋がある場所で折り返しだ。二つの橋が平行にかかっている珍しい場所だが、どうやら以前、建築会社の受注ミスによってかけられたとか。市長はこれを町おこしのきっかけにしようと試みたらしいが、周りには住宅街しかないのでボツになっただとか。この橋に名前を付けた人間はきっと大泉洋のファンに違いない。

橋に到着したあたりで普段とは違う事に気がついた。深い紺色のワンピース。足元はビーチサンダルといったラフな服装。首元には丸渕のメガネが収められていた。目鼻立ちがスッとしていて、立ち姿が絵に描いたように美しい30代前半くらいの女性がいた。彼女は黙々と橋の絵を描いているようだった。こんなに早い朝6時から?わざわざこの橋のデッサン?立ち姿から滲み出る彼女の不思議な魅力と、妙な違和感を覚えながら亮介は橋を折り返そうとした。亮介は後ろからの声に足を止めた。

「あなたには見える?」

「え?」

「私は自分のやりたくない事とか、苦手な事とか嫌いな物とかはよく分かってるし見える。それなのにやりたい事は見えないないんて皮肉なもんよね。」

彼女は少し微笑みながら川を見ていた。

「あの、、すみません。ちょっと何言ってるか分からないのですが。」

大村が大ファンであるお笑いコンビの常套句をまさかこんな風に自分が使うことになるなんて。以前サシで飲みに行った時に2時間以上熱弁された事があり、うんざりした記憶がある。

「間の取り方、話し方、スピード、ネタの内容、、どれを取ってもあんなに素晴らしいコンビはいないって!!おれも話術で世間をあっと驚かせてやりてえよ。」

そう語る彼はつまらない話を甲子園で球児達が歌う校歌のように大声で話していた。球児達はやる気と元気に満ち溢れているはずだが、大村にはそれがない。そんなにリスペクト先行主義なのであれば、お口をチャックしてみるべきだ。保育園のお昼寝の時間に彼は何をしていたのだろうか。僕はお利口に羊を数え続けていたというのに。

体の向きを変えないまま、彼女はこちらを見た。

「急にごめんなさいね。今日は6月の終わりで今年ももう残り半分でしょう。なんというかその、半年を振り返りをしたくて。あなたにも分かるでしょう。」

「はぁ」

「1人で絵を描いてる時は無心になれるんだけどね。時々人と話さないと自分がどこの誰かわからなくなっちゃうの。あなたにも分かるでしょう。」

そんなに人間関係が希薄な風に見えるのか。たしかに社会人になってから会う友人は以前より格段に減った。土日はだいたいシフトが組まれてるし、休みの日もどこかに出かけたりすることもなくなったけども。
少しタメを作って、

「まあ、人と話すって大事なことですよね。」

考えているように返事をしてみたけど、ただの相槌に過ぎない。

「きっとあなたもこの梅雨空みたいにじめじめしているんでしょうから、もっと我儘になってもいいんじゃない。世界の流れに争って疲れてみても。
私も一度でいいから天気とかを自由自在に操ってみたいのね。サブウェイのサンドウィッチを選ぶみたいに、このどんよりした空に雷とか強風とか追加トッピングしてみたりね。」

「僕はサブウェイではエビアボガドしか食べないです。」

「それはけっこう我儘ってよりこだわりが強いわね。うん、それじゃまた明日ね。よく散歩するんでしょうこの道。」

思い返しても、亮介は彼女を一度も見かけたことはなかった。おそらく地元に住んでいて家から見えたとかだろう。もし毎回つけられてるとしても、少しの恐怖よりファンができたような高揚感が勝る。

「明日は朝から雨なので散歩しないと思います。このメッシのシャツも乾かないだろうし。」

そう言って亮介はその場を去っていった。雨雲はストライプ柄のように綺麗な平行線を保ちながら流れていく。残りの散歩道は彼女の事とエビアボガドが頭から離れなかった。

その数日後以降、白とグレーと黒が入り混じる空の下で亮介とその女は何度かやりとりをした。きまって亮介が折り返しをするタイミングで彼女が声をかけることが決まり事のようになっていた。

「何か今日のお昼はさっぱりしたものが食べたい気分。君は今日何の気分?」

「カツオユッケ」

「お姉さんは今まで描いた絵で駄作だと思うものはありますか。」

「アーティストは自分の作品を子供のように大切にするものよ、少年。」

「生まれ変わるなら何になりたい?」

「サッカーが上手いポルトガル人」

「その絵はいつ頃完成しそうなんですか。」

「もう仕上げの段階よ。完成したらあなたが1番に見ることになりそうね。」

「お姉さんの次なので2番目です。楽しみにしています。」

亮介がその絵を見ることはなかった。絵の完成が目前となってから彼女は姿を現さなかった。彼女の代わりに橋には何本かの薄いブルーの花が添えられていた。その隣に置いてあった手紙は少し湿ったせいか文字が滲んでいた。

「MEGUMI様のご命日にあたり、心ばかりのお花を贈らせていただきます。」

家に着いてからインターネットで彼女の事を調べてみると、彼女についてのまとめページや作品がヒットした。

この橋では何年か前に女性アーティストであるMEGUMIという人物が自殺した場所らしい。彼女は多摩にある美術大学に通っており、学生時代から高い表現力と画力を備えており、次世代の芸術界を牽引する存在だと知られていた。そんな彼女が作品のテーマにしていたものは「静」。動かぬものや死んでしまったものを題材にして作品を生んでいたという。彼女の最後の作品は、寿命によって世界の秩序抗う事なく去っていった10年以上愛した飼い犬が題材だった。

彼女は大学を卒業して数々の大手企業や名の知れた富豪から作品を手掛けてくれないかというオファーを手に余るほど受けた。凛とした姿から、雑誌の表紙などにも候補に出ていたという。それに対して彼女は一切イエスと言うことは無かった。

「私は世の中の無価値だと思われているもの、亡くなったと思われているものを描くことによって、多くの人が目に見えないからという理由で次第に忘れていく慈悲の感覚を、形あるものとして残したいだけなんです。才能があると認めてくださることは嬉しいですが、それを誰かの為に使うことは考えていません。」

一切の営利活動をしないという宣言。供養を目的とする芸術活動。ルーキー時代の作品がマスコミに特集された事もある故、多くの彼女の進路を期待する人物はこれに失望した。その後次第に、

「道を踏み外したオカルトアーティスト」
「向こうの世界からやってきた芸術家」
「リアルダークファンタジーの姫」

などと揶揄されるようになり、彼女の芸術活動の範囲は徐々に閉ざされていった。

彼女の家で家宅捜査が行われた際に、完成目前の絵がリビングで見つかった。絵の中では轟々と音を立てているはずの大きな滝が、エンジンを抜き取られたかのように凍り付いていた。作品自体は完全に不動なのだが、彼女がこだわり抜いたプライドによってその絵は動いているようにさえ見えた。

コンクリートには昨日の雨による水溜りが残っていてゆらゆらと波打っている。亮介は朝の占いをチェックしながらコップの水を飲み干す。携帯には昨晩大村からラインの通知が残っていた。

「20代は今やりたいことを追いかけたもん勝ちだかんな!」

スタンプを返すことすらやりたくないと感じた。

今日の牡羊座の運勢は6位、ラッキーアイテムは豆乳。玄関の近くににかかっている滝の絵は、今にもどうどうと音を鳴らして遥か下の滝壺に吸い込まれていきそうだった。

メッシのシャツを着て自宅から出る。Tシャツの袖すらも鬱陶しいので肩まで捲る。サブウェイのサンドウィッチを選ぶかのように、今日のどんよりした天気に環太平洋アークを加えることができたらいいなと思う。そんな世界に抗うことなんて出来るわけがないと自分で苦笑する。ネットサーフィンで最近目についた言葉だった。そういえば昨日コンビニで新作のサイダー味の豆乳が発売されていたことをおもいだした。散歩の後に飲もうか。午後に行う最終面接前にお腹を壊したくないので、帰りに買うのが無難かもしれない。

空には雲の切れ目からうっすらと晴れ間が見え隠れしていたことに、亮介は気がつかない。「正式に仕事が決まった暁にはあいつに焼き肉でも奢らせよう。」なんてことを考えていた。

初夏の匂いのする爽やかな風が夏を連れて来る。
家を出る時に切り忘れたテレビ画面には、来週からの遅めの梅雨明けを発表している気象予報士が映っていた。

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