《建築のデザイン》和風とモダニズムを融合させた建築家、吉村順三
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吉村順三
名前:吉村順三(よしむら じゅんぞう)
生没:1908年 - 1997年(享年88歳)
吉村順三は、東京出身で東京美術学校(現:東京芸術大学)出身。卒業後、レーモンド事務所でモダニズム建築を学んだ日本の建築家です。
多くの和風と近代様式を折衷したモダニズム住宅を多く手掛けたことで知られています。吉村順三が手掛けた住宅は、今も住み続けられているものが多い。
経歴
東京市本所区緑町の呉服商の家に生まれる。東京府立三中卒業。東京美術学校(現東京藝術大学)で建築を学び、実測と観察を通して日本の古建築に触れています。1931年(23歳)に卒業後、アントニン・レーモンドに師事。モダニズム建築を体得するとともに、レーモンドに日本建築を伝えています。
1941年(33歳)、吉村順三設計事務所を開設。
1945年(37歳)、東京美術学校助教授就任。
1962年(54歳)、東京藝術大学教授に就任。
1970年(62歳)、東京藝術大学名誉教授。
1990年(82歳)、日本芸術院会員。
皇居新宮殿の建設に関わった。日本の伝統とモダニズムの融合を図った。
吉村の設計物件を特命で手掛けた建設会社としては、1933年から2014年まで営業しており、皇居新宮殿を担当した老舗・岩本組が知られています。
アントニン レーモンド
アントニン・レーモンド(チェコ語: Antonín Raymond)は、アントニーン・レイマン(1888年5月10日 - 1976年10月25日)として生まれたチェコ系アメリカ人の建築家。ボヘミア(現在のチェコ共和国)で生まれ、学び、後にアメリカと日本で活動しました。1926年(38歳)から1939年(51歳)まで駐日チェコスロバキア領事も務めていましたが、ナチス・ドイツによる占領後、チェコ外交は閉鎖されました。
アメリカの建築家キャス・ギルバート(Cass Gilbert)とフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)との最初の仕事を通じて、彼はコンクリートの質感と構造に対する洞察を得ました。ペンシルベニア州ニューホープと東京のスタジオで、彼は日本の伝統的な建築技法とアメリカの最新の建築技術との融合を探求しました。レイモンドはこれらの原則を、日本、アメリカ、インド、フィリピンの住宅、商業、宗教、施設など幅広いプロジェクトに応用しました。
イギリスの建築家ジョサイア・コンドル()とともに、レイモンドは日本におけるモダニズム建築の父の一人として知られています。
吉村順三の作品
NCRビル(1962)(54歳)
京都港区赤坂一丁目に所在。1962年に吉村順三設計事務所の設計により日本NCRの本社ビルとして建設され、2000年に日本財団に譲渡されました。
住宅を得意とした吉村順三が初めて手掛けたオフィスビル。大きな特徴として、日本のオフィスビルとして初めてダブルスキン構造を採り入れたことがあります。
北東側の外堀通りをはじめ北西、南東の三方を道路に囲まれた三角形の敷地に立地し、建物の平面も三角形に近い五角形の形状。隅を切ることで、景観的に連続性を持たせています。
時間帯により変わる日射で生じる建物の負荷の変動の影響を軽減するため、室内の空気を二重のサッシの間を通して塔屋のファンで排気する換気システムが3階以上の事務室で採り入れられています。
二重窓の外側はアルミサッシと熱線吸収ガラス、内側はボンデ鋼板と透明ガラスが使用され、それぞれ下部の一部は開閉可能な構造となっています。建設当時はアルミサッシの既製品がなく、日本の建築家、奥村昭雄がアメリカの論文をもとに作図し、不二サッシと共同で製作しました。
外側窓のさらに外周には直射日光を軽減する庇(ひさし)を兼ねたメンテナンス用バルコニーを設け、黒色アルマイト仕上げのアルミ押出材の手すりを取り付けることにより水平方向に統一感のある印象を与えています。
塔屋には視覚的効果を計算した位置に「NCR」のネオン看板が設けられ、ウエザーサインの機能を持たせていました。
2000年に日本財団が建物を取得。2001年に松田平田設計により改修され、内装や設備機器などが更新されましたが、ダブルスキン構造は維持されました。
2001年に日本財団が虎ノ門の旧日本財団ビルから移転し、建物名が「NCRビルディング」から「日本財団ビル」に改められました。旧日本財団ビルは海洋船舶ビルに名称が変更され、2015年に笹川平和財団ビルに建て替えられました。
1964年に第5回建築業協会賞(BCS賞)、2003年にはDOCOMOMO Japanにより日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定されました。
軽井沢の山荘(吉村山荘)(1962年)(54歳)
吉村順三が手がけた軽井沢にある自身の別荘。コンクリートと木造の混構造、片流れの屋根。
俵屋旅館(1965年)(57歳)
京都の老舗旅館「俵屋」。吉村氏は増築を担当。俵屋はスティーブ・ジョブズが常連客でした。
京都の老舗旅館「俵屋」の建築は、変化し続けており、江戸時代につくられた風格ある書院風の建築から、明治時代に数寄屋風になり、そして吉村順三が昭和に増築。さらに当主・佐藤年(とし)氏の好みが加わって改修がなされて現在にいたる。客室18室。
俵屋の創業は約300年前。現在の島根県浜田市にあった呉服問屋が京都に支店を出し、本業の傍ら藩士たちに宿を提供するうちに、そちらのほうが本業になりました(*4)。
幕末の焼失の後、明治初年に6代目当主、岡崎和助の手で木造2階建てが順次建て増しされる。原型は残しつつ書院風から数寄屋風へ改築したのが8代目岡崎和助で、1927(昭和2)年頃には全8室が定まり、これが本館となっています。
外塀、入口、玄関、中坪と続く絶妙のアプローチ空間は当時のまま現在も残り、1999年には登録有形文化財(この登録制度は,近年の国土開発や都市計画の進展,生活様式の変化等により,社会的評価を受けるまもなく消滅の危機に晒されている多種多様かつ大量の近代等の文化財建造物を後世に幅広く継承していくために作られたものです。)に指定されました。
戦後、1949年に国際観光ホテル整備法が制定され、国際観光旅館登録の要件が示される。10室以上の客室、隣室とのあいだを壁で仕切る、踏込みまたは次の間を設ける、テーブルや椅子を配した3㎡以上の広縁を設けるなどの内容。
この難題をクリアするための諸々の相談にのったのが、吉村順三。
吉村氏は、レーモンドとともに俵屋を京都の定宿としていて、先代の当主となじみがありました。
南側の敷地を買い増して木造平屋の2室を建てる際も吉村に設計が依頼され、58年に竣工した(本館増築部)。これで10室となり、ようやく国際観光旅館として登録されました。その後、海外からの客の増加もあって北側に鉄筋コンクリート造の3階建て、8室の増築。吉村氏が設計、65年に竣工(新館)。これで18室となる。
湘南茅ヶ崎の家(1968年)(60歳)
湘南の造り酒屋である「熊澤酒造」代表・熊澤茂吉氏の自宅が吉村順三が1968年に建設した家屋。
熊澤氏がこの家に引っ越してきたのは2008年。もともと、寺田倉庫の創業者夫妻が、ゲストハウスとして使う目的でゴルフクラブ「スリーハンドレッドクラブ」の敷地内に建てたものでした。
詳しい記事は下記の鎌倉R不動産のサイトへ。とても素敵な記事で吉村順三氏設計の家の魅力がよくわかる。
青山タワービル・タワーホール(1969)(61歳)
山中湖の山荘 A (亀倉雄策の山荘)(1970)(62歳)
軽井沢の山荘 B (脇田山荘)(1970)(62歳)
脇田和氏は吉村順三と東京藝術大学の教授同士という関係で、その流れで設計することになりました。
吉村氏自身の山荘と同様に1階を鉄筋コンクリート造、2階を木造にしているのは、軽井沢が環境的に湿度が高く、積雪もするので、湿気を避けるためだそうです。
奈良国立博物館 新館(1972)(64歳)
インクギャラリー(鎌倉山)(1974年)(66歳)
吉村順三が設計した住宅を、建築家の中村好文が改修に携わり現代に蘇った、インクギャラリー。隣接する数奇屋建築も吉村順三による設計で中村外二工務店が施工を担当しています。
現在はYAECAのデザイナー服部氏が所有。年に数回ギャラリーとして利用しています。
まとめ
師事したアントニン・レーモンド氏との相互的な影響により、吉村順三氏の建築は、和風建築とモダニズム建築を合わせて持つ特徴を持っています。現存する彼の設計建築に触れるときには、その特徴と符合する部分を探してみるのも楽しいかもしれません。
わたしはインクギャラリーでの数寄屋建築を先日堪能してきました。各部屋が正方形になるように構成されていました。
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参照
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