モディリアーニと『007 スカイフォール』
《週末アート》マガジン
いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。
モディリアーニって誰?
国:イタリア
生没:1884–1920年
関連:エコール・ド・パリ
アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884–1920)は、モテモテだけで酒とドラッグにおぼれて35歳にして結核性髄膜炎で死去してしまうイタリアの画家、彫刻家。生まれはイタリアですが、主にフランス、パリで活動していました。、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家の一人。生まれたのは、イタリアのトスカーナ州にあるリボルノ(Livorno)。ユダヤ人(モディリアーニ氏の自己紹介は「画家でユダヤ人です」だったそう※3)。22歳でパリへ。
モディリアーニの作風
モディリアーニ氏の絵画の代表作は、大部分が1916年(32歳)から1919年(35歳)の間に集中して制作され、その ほとんどは油彩の肖像と裸婦であり、風景は4点のみ。顔と首が異様に長く、目には瞳を描き込まないことが多いものがよく注目されています。これらの特徴は、当時流行していたアフリカ彫刻の影響を受けて始めた彫刻の流れを汲んで生まれたもの。裸婦を描くようになったのは、ポーランド人画商のレオポルド・ズボロフスキー氏の支援が始まっていから。支援は専属契約という形でなされ、この始まりが1916年なので、作品数が多くなった時期と重なります。ズボロフスキー市には画材などの提供もしてもらっています。
それ以前は、パブロ・ピカソ氏やポール・セザンヌ氏から影響を受けまくりの作品もあり、肖像画のモデルは仲間や友人たちばかりでした。
1920年には死去しているので、活動期間や作品数は短く少なく、それもあってから現在は高額で取引されています。
エコール・ド・パリとは
エコール・ド・パリ(École de Paris)は、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを意味する言葉です。狭義のエコール・ド・パリは、パリのセーヌ川左岸のモンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちをさす。一方、セーヌ河右岸のモンマルトルには、ピカソが住んでいた洗濯船(バトー・ラヴォワール)があり、こちらにはキュビスムの画家が多く住んでいました。広義のエコール・ド・パリは、キュビストも含めてこの時代のパリで活躍した外国人画家すべてを指しています。
生涯
1884年 トスカーナ地方のリヴォルノで誕生。当時モディリアーニ家は林業や銀鉱を経営していましたが、モディリアーニ氏が生まれた年に倒産しています。 父フラミニオ氏は、モディリアーニ氏の幼少期に旅行をすることが多く、母方の祖父イザーク・ガルサン氏がモディリアーニ氏とよく話をしていました。祖父はは博学で、モディリアーニ氏に芸術や哲学の話を聞かせていたようです。
1898年(14歳) 風景画家のグリエルモ・ミケーリ(Guglielmo Micheli)氏のアトリエでデッサンの指導を受け始めます。
1900年(16歳) 結核に冒される。
1901年(17歳) 転地療養(患者を気候や環境のちがうところへ移し住まわせ、病気の治療をすること)のため母とナポリ、カプリ、アマルフィ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアを旅行する。この際、訪れた教会などで見たイタリア美術、殊に14世紀シエナ派のティーノ・ディ・カマイーノ(Tino di Camaino)の彫刻に強い感銘を受ける。
1906年(21歳)母による資金でパリへ向かう。
1906年1月(21歳) パリへ移住。アカデミー・コラロッシに入学。 モンマルトルのコランクール街にアトリエを借り活動を始める。そこはアパート洗濯船に近く、モンマルトルの画家たちと知り合う。
洗濯船(バトー・ラヴォワール、Bateau-Lavoir)
洗濯船は、モンマルトル(パリ18区、クリニャンクール地区)にあった集合アトリエ兼住宅。0世紀初頭にパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、フアン・グリス、モーリス・ドニ、コンスタンティン・ブランクーシをはじめとするモンマルトルの芸術家、文学者、俳優、画商らが活動の拠点としていました。
環境も手伝って、モディリアーニ氏は、パブロ・ピカソ、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらと交流を結ぶようになります。(そしてピカソの影響を強く受ける)
1907年末(23歳) サロン・ドートンヌ(毎年秋にパリで開催される展覧会)に出品。同所の回顧展でポール・セザンヌを知り、モディリアーニ氏は強い衝撃を受けます。当時のモディリアーニ氏の作品の評価は低く、ごく少数の新聞に他の作家と共に名が載る程度でした。
1909年(25歳) モンパルナスに移る。ここでルーマニア出身の彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuşi)と交流。また、この時期に彼は彫刻に没頭し、1915年頃まではアフリカ、オセアニア、アジア、中世ヨーロッパなどの民族美術に影響を受けた彫刻作品を主に作っていました。 資金不足と健康の悪化(結核や酒、ドラッグ)による体力不足などの理由により、体力を使う彫刻を途中で断念します。しかしこの彫刻の影響が、のちに対象のフォルムの単純化などのモディリアーニ氏の作品の特徴となっていきます。
1914年(30歳) パリでも著名な画商であったポール・ギヨーム氏と知り合い、ギヨーム氏らの勧めにより、1915年頃から絵画に専念し、画業を始めます。 当時シャイム・スーティン、藤田嗣治、モーリス・ユトリロとも交友関係がありました。1914年7月、英国人女性のベアトリス・ヘイスティングスと知り合い、2年間交際します。 同じ頃、第一次世界大戦が勃発し、モディリアーニは病弱なため兵役は不適格となりました(本人は兵役につきたかったが)。
モディリアーニの岐点、ズボロフスキー
1916年には、ポーランド人画商のレオポルド・ズボロフスキー(Léopold Zborowski)氏と専属契約を結び、絵をすべて引き取る代わりに、画材などを提供してもらいます。
この専属契約をきっかけにして、モディリアーニ氏はモデルを雇うことができるようになり、友人たちではなく裸婦を描き始めます。
1917年3月(32歳) アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌ(Jeanne Hébuterne)と知り合い、同棲を始めます。
1918年(34歳) ジャンヌ氏との間に長女ジャンヌ(母と同じ名前)が誕生。
1919年7月(35歳) ジャンヌ・エビュテルヌ氏に結婚を誓約。しかし、貧困と肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生で荒廃した生活の末、1920年1月24日(35歳)、結核性髄膜炎により死去。35歳没。 ジャンヌもモディリアーニの死の2日後、後を追って自宅のあるアパルトマンから飛び降り自殺しました。この時、妊娠8ヶ月。
目があったり、なかったり
モディリアーニの裸婦画
『007 スカイフォール』に出てくるモディリアーニ
2010年にパリ市近代美術館から絵画が数点盗まれるという事件が起きました。このとき盗まれたのは、ピカソ、マティス、ブラック、レジェの作品計5点とモディリアーニ氏の『扇を持つ女』(Woman with a Fan, 1919)。その後犯人は捕まるも盗まれた作品は見つからないままです。そんな『扇を持つ女』が、映画『007 スカイフォール』の中に登場します。
盗まれたモディリアーニ氏の作品が闇取引されているという設定で登場するわけです。じつはこの盗まれた絵画が登場するという場面は、一番最初の『007 ドクター・ノオ』にもあります。このときは、ゴヤの『ウェリントン公爵』でした(この絵画は映画の公開の3年後の1965年に無事奪還されました。なので、以前の作品へのオマージュもあり、かつモディリアーニ氏の作品が盗難にあったという事件も作品に深みを持たせるために使われているわけです。作り込まれた映画はこんなふうにけっこう何度でも味わえるエピソードを多く含んでいます。
まとめ
アメディオ・モディリアーニ氏は、身体は結核で弱い上に酒とドラッグに溺れ、貧困でありながら、モテモテ……なのに早逝。もったいない。しかし作品は奇妙にすごく魅力的。わたしに娘がいるなら、近づけたくない危険な存在ですが、その魅力の正体をいつか理解したいとも思います。わたしもモディリアーニ氏の作品が欲しいのですが、まだちょっと買えそうもありません。
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参照
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