知っておきたいデザイナー№7: タイポグラフィーの巨匠、ヤン・チヒョルト
ビジネスに使えるデザインの話
ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。noteは毎日午前7時に更新しています。
“知っておきたいデザイナー”×7
「何のために」“知っておきたい”のか。それは、デザインという知識は景色が変わるほどに、わたしたちの世界を広げて、深めてくれるのですが、重要なデザイナーを知ると、そんな知識のゲットがたやすくなるからです。時代や流行の流れのようなものを人を介して全体を観ることができるようになるんです。点をつなぐと星座が見えるように。そんな北斗七星のようなグラフィックデザイナー7人を紹介していきます。一人目は、ポール・ランド氏。二人目は、日本の亀倉雄策。3人目は、ソール・バス。4人目は、アドルフ・カッサンドル。5人目は仲條正義。6人めは、ヨゼフ・ミュラー=ブロックマンでした。彼らに関する記事はこちらのマガジンにまとめています(それにしても「まとめる」って漢字で書くととても難しくなりますよね)。
ヤン・チヒョルト
ヤン・チヒョルト(Jan Tschichold)(1902 – 1974)は、ドイツのタイポグラファー、カリグラファー、書籍デザイナーです。看板屋の長男としてライプツィヒに生まれました。
新しいタイポグラフィの創生に努めますが、ナチスにタイポグラフィーを反ドイツ的なものとして見られ、自宅に妻とともに軟禁され、それをきっかけにしてスイスへ移住します。これをきっかけにして喧伝してきた厳格なタイポグラフィーのルールを「狭量な考え方は、まさにナチスのドイツ至上主義に通じる」として、柔和な姿勢に転換していきます。反伝統的な立場から伝統的なタイポグラフィを擁護する立場に変わります。もとの姓名は Johannes Tzschichhold 。Iwan Tschichold と名のっていたこともあります。
略歴
1902年(0歳)、看板屋の長男としてライプツィヒに生まれ、カリグラフィーを学ぶ。
1919年(17歳)、ヘルマン・デリッツェの教室でライプツィヒ芸術アカデミーの勉強を始める。その非凡な業績により、間もなくゲーブル・クリングスポール鋳造所の活字デザイナーであるヴァルター・ティーマン学長の門下生となり、仲間の指導を任されるようになる。同時に、ライプツィヒ見本市の一環として最初の注文を受け、1923年(21歳)には印刷会社のタイポグラフィ・コンサルタントとして独立する。
このような職人的な経歴とカリグラフィーの訓練は、当時の他の著名なタイポグラファーのほとんどが建築や美術を学んでいた中で、ヤン・チヒョルトを際立たせていました。また、多くのタイポグラファーのように手漉き紙やカスタム書体を使わず、市販の紙と既存書体を好んで使っていました。出自も手伝って、ヤン・チヒョルトは、アート由来ではなく、職人由来な行動傾向を持ち、プラクティカルな姿勢でした。
バウハウスとの出会い
1923年(21歳)のとき、ヤン・チヒョルト氏は、ワイマールでのバウハウス展を訪れ衝撃を受け、それまで歴史的・伝統的なタイポグラフィしか扱ってこなかったのですが、ラースロー・モホリ=ナジ、エル・リシツキー、クルト・シュヴィッタースなど,従来のタイポグラフィの硬直した仕組みを打破しようとする急進派のアーティストたちに出会い、アプローチを根本的に変更します。ヤン・チヒョルト氏は、新しい表現方法を模索し、より実験的な仕事を試みながら、且つシンプルで実用的なアプローチを見つけることが重要であると感じました。
1925年(23歳)には『タイポグラフィ通信』の特集号で「Elementare Typografie(初歩のタイポグラフィ)」と題して、新しいアプローチを論文としてまとめ、「ニュータイポグラフィ」の代表的な一人となり、その存在が大きく知られることとなりました。
ドイツでヒトラーが当選すると、すべてのデザイナーは文化省に登録しなければならなくなり、共産主義に共鳴する者はすべての教職に就くことが脅かされるようになりました。ヤン・チヒョルト氏は、、パウル・レナー(書体”Futura”のデザイナー)の要請でミュンヘンで教職に就きますが、まもなく「文化的ボリシェヴィスト(共産主義者)」と糾弾されました。1933年3月(30歳)、ナチスが政権を握った10日後、チヒョルト氏と妻は逮捕され、その際、彼の部屋からソ連のポスターが発見され、共産主義者との共謀の疑いもかけられました。ナチスドイツの秘密国家警察、ゲシュタポによりヤン・チヒョルトの著書はすべて押収されてしまいます。その6週間後に、ヤン・チヒョルト氏と彼の家族はスイスへ逃亡しました。
ヤン・チヒョルト氏は、その後、1937年(35歳)にペンローズ・アニュアル社の招かれ、1947年から1949年(45歳–47歳)のあいだには、ペンギン・ブックスのデザインに携わったイギリスのタイポグラファー、ルアリ・マクリーンに招かれ、イギリスに滞在したほかは、生涯スイスで暮らしました。1974年(72歳)にロカルノの病院で死去。
ヤン・チヒョルトのデザイン
前述の通り、1923年(21歳)、ワイマール・バウハウスで開催された第1回展を見たチヒョルト氏は、モダニズムのデザインに傾倒していきます。1925年の雑誌へ寄稿し、、1927年の個展、そして最も有名な作品『Die neue Typographie』(新しいタイポグラフィー)によって、ヤン・チヒョルト氏はモダニズムデザインの提唱者となっていきました。
英語版を購入するならこちらから。
この本は、モダンデザインに則った、タイポグラフィーの実践マニュアルでした。この本のなかで、ヤン・チヒョルト氏は、サンセリフ(日本語では「ゴシック体」)以外のすべての書体を非難しています。また、タイトルページなどには中心を持たないデザインを推奨し、その他にも多くのモダニズム的なデザインルールを体系化しています。また、すべての印刷物の用紙サイズを統一することを提唱し、情報を素早く簡単に伝えるために、活字の大きさや重さを効果的に使い分けることを初めて明確に説明しています(さすが職人的思想)。
しかしヤン・チヒョルト氏は、この本を書いたあと、ナチス・ドイツに逮捕・軟禁され、それに影響を受けて、狭量な支配主義的な態度は自分のそれまでの思想や態度に通じると思い当たり、厳格なルールに則るべき!という態度を軟化させていきました。結果『Die neue Typographie』があまりにも極端なものだったと述べています。また、モダニズムのデザイン全般を権威主義的で本質的にファシズム的であると非難するまでに至っています(極端)。
1947年から1949年にかけてイギリスに滞在し、ペンギン・ブックスから出版された500冊のペーパーバックのデザインを監督し、タイポグラフィの標準的な規則である「ペンギン構成規則」(Penguin Composition Rules)を残しました。チヒョルト氏はペンギンの本(特にペリカンシリーズ)に統一感を与えることに成功します。
モダニズムの原則を放棄したため、戦後スイスに住んでいたにもかかわらず、戦後のスイスのインターナショナル・タイポグラフィック・スタイル(いわゆるスイス・スタイル)の中心的存在にはなりませんでした。
ヤン・チヒョルト氏の書体
チヒョルト氏は、カリグラフィーを習得していることもあり、書体をいくつかデザインしています。最も有名なのはSabon。セリフ体が嫌いだったチヒョルト氏ですが、 1966年(64歳)にこのセリフ体をデザインしています。
Transito (1931)
Saskia (1931/1932)
Zeus (1931)
Sabon (1966/1967)
SabonはMonotypeとLinotypeの両方のシステムで同じ再現性を得られるようにデザインされた書体です。後にライノタイプ社からTschicholdのオリジナルSabonの「解釈」として「Sabon Next」が2012年に発表されました。
「Sabon Next」はMyfontsから購入できます。
まとめ
ヤン・チヒョルト氏は、バウハウスとモダニズムの影響を受け、タイポグラフィーがどうあるべきかを体系化したことでひとつのデザイン史におけるイベントを形成しています。つぎにナチスと第二次世界大戦を経験し、そこから新古典主義、というか伝統を全否定するのをやめるという態度に変わります。そしてペンギンブックスでのアートディレクションによって、商業とスムーズ且つ効果的なデザイン、組版のあり方を体系化し、それを残していきます。見た目や仕様を統一することでブランディングに寄与しつつ、職人や制作のスムーズな仕事のしやすさも作り上げていたわけです。ちょっと何かと口うるさそうな人(私見)ですが、モダニズムをタイポグラフィーに厳格にコンバージョン(転換)した偉大な人物です。
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関連書籍
『ふたりのチヒョルト―イワンとヤン』
著者の片塩氏は、日本のタイポグラフィの権威のひとり。
『ペンギンブックスのデザイン 1935-2005』
ヤン・チヒョルト的(且つヨゼフ・ミュラー・ブロックマン的)なグリッドシステムに厳密なレイアウトの白井 敬尚(しらい よしひさ)氏(の事務所)によるブックデザインも魅力のひとつ。わたしの大好きな本のひとつ。
参照
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https://nostos.jp/archives/222394
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