《週末アート》 スペインの大画家ディエゴ・ベラスケスと“亡き王女のパヴァーヌ”
《週末アート》マガジン
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ディエゴ・ベラスケス
名前:ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)(1599-1660)
国:スペイン(スペイン帝国)
時期:バロック期
ディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez)(1599-1660)は、バロック期(1600年頃〜1750年頃)のスペインの画家。エドゥアール・マネ氏(1832-1883)が「画家の中の画家」と呼ぶほどの巨匠。スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する画家。
緻密なテネブリスト様式で描き始め、後に大胆な筆致を特徴とする自由な作風を発展させていきました。歴史的、文化的に重要な場面を数多く描いたほか、スペイン王室や庶民の肖像画を多数描きました。
ベラスケス氏の絵画は、19世紀の写実主義や印象派の画家たちの手本となった。20世紀には、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、フランシス・ベーコンなどが、ベラスケスの最も象徴的なイメージを再解釈し、ベラスケスへのオマージュを捧げています。また同じくスペインの画家、フランシスコ・ゴヤ氏にも大きな影響を与えています。
代表作
ベラスケス氏の作品は、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見えます。このような、近代の印象派にも通じる油彩画の卓越した技法が、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価した理由のひとつでした。
卵を料理する老婆(1618)(19歳)
ブレダの降伏(1634-35)(35-36歳)
1625年6月5日にブレダを征服したジェノバ出身のスペイン人将軍アンブロジオ・スピノラ(Ambrogio Spinola)と共にイタリアを訪れたベラスケスのインスピレーションにより、1634年から35年にかけて制作されました。この絵は、オランダが所有していたブレダの鍵をスペインと交換する様子を描いています。
ベラスケスの最高傑作のひとつとされています。ベラスケス氏は『ブレダの降伏』をオランダの指導者ユスティヌス・ファン・ナッサウ氏とスペインのジェノバ人将軍スピノラを含む2つの部分に分けて構成しました。ジャン・モリス氏はこの絵を「あらゆる絵の中で最もスペイン的なものの一つ」と呼んでいました。
バリェーカスの少年(1643-45)(44-45歳)
ベラスケス氏は当時「慰みの人々」として宮廷に仕えた小人や道化師をしばしば題材にしています。モデルは、王太子バルタサール・カルロスの遊び相手として宮廷に暮らした矮人(わいじん、身体の小さなひと)のフランシスコ・レスカーノ氏。バリェーカス(Vallecas)はマドリッド郊外の地名。マドリッドの山を背景に、手にカードを持ち、狩猟用の装いで屋外に座る姿が描かれています。
鏡の前のヴィーナス(1648-51)(49-52歳)
ベラスケスによる現存する唯一の女性の裸婦像。17世紀のスペイン美術において裸婦像は極めて稀であり(カソリックの国であるため)、スペイン異端審問官によって盛んに取り締まられました(ゴヤも何かと大変な目にあっています)。しかし、外国人画家の裸婦像は宮廷内で熱心に収集され、本作も1813年にイギリスに渡り、ヨークシャーのロケビー公園に飾られるまで、スペイン宮廷人の邸宅に飾られていました。1906年、国立美術品収集基金によって購入され、ロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されることになりました。1914年、参政権運動家のメアリー・リチャードソン(Mary Richardson)によって襲撃され、ひどく損傷してしまいますが、すぐに完全に修復され、再び展示されるようになりました。
イノセント10世の肖像(1650年)(51歳)
ベラスケス氏が1650年頃にイタリアを旅行したときに制作。多くの芸術家や美術評論家が、史上最高の肖像画とみなしています。ローマのドリア・パンフィルジ美術館に所蔵されています。リネンの法衣を身にまとい、上衣や頭飾り、垂れ幕の豊かな赤に作品の質の高さが表れています。
ラス・メニーナス(1656年)(57歳)
複雑で謎めいた構図が現実と幻想に疑問を投げかけ、描かれた人物と鑑賞者の間に不確かな関係を作り出すことから、西洋絵画で最も広く分析されている作品のひとつとされています。
フランシスコ・ゴヤ氏は、1778年に『ラス・メニーナス』の版画をエッチングし、ベラスケスの絵をモデルにして『スペイン王カルロス4世とその一家』を制作しました。
『ラス・メニーナス』と同様、ゴヤ氏の作品に登場する王族は、画家のアトリエを訪れています。両作品とも、画家は背面しか見えないキャンバスに描かれています。
生涯
1599年 スペイン、セビリアで誕生。
1610年(11歳) セビリアの有力な画家であるフランシスコ・パチェーコ(Francisco Pacheco)氏に弟子入り。
1617年(18歳) 独立。
1618年(19歳) 師匠パチェーコの娘であるフアナと結婚。
17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されていました。ベラスケス氏も宮廷画家になる前は、厨房画のジャンルに属する作品を描いていました。1618年に制作された『卵を料理する老婆』(Vieja friendo huevos) (上述)などがその代表作。
1622年(23歳) 首都マドリードへと旅行。
1623年(24歳) マドリードに2回目の旅行に行く。このとき、スペインの首席大臣であったオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンの紹介を受け、国王フェリペ4世の肖像画を描きました。国王に気に入られてフェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描き続けました。
美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケス氏を厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りするほどでした。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められていませんでしたが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えていました。
1628年(29歳) スペイン領ネーデルラント総督のイサベル・クララ・エウヘニアから外交官として派遣されてきたピーテル・パウル・ルーベンス氏と出会い、親交を結びます。この年から翌年にかけて「バッカスの勝利」を描いています。
1629年(30歳) 美術品収集や絵画の修業などのためにイタリアへの旅行が許される。イタリアへ向かう船の中でオランダ独立戦争の英雄であったアンブロジオ・スピノラと同乗することとなり、親交を結ぶ。イタリアではヴェネツィアやフェラーラ、ローマに滞在し、1631年(32歳)にスペインへと戻る。
帰国後、1634年から1635年にかけて、新しく建設されたブエン・レティーロ離宮の「諸王国の間」に飾る絵の制作を依頼され、すでに故人となっていたスピノラ将軍をしのんで「ブレダの降伏」を制作。他にも1637年には「バリェーカスの少年」、1644年には「エル・プリーモ」や「セバスティアン・デ・モーラ」など多くの作品を制作し、役人としても順調に昇進していく。
1648年(49歳) 2回目のイタリア旅行に出発し、1651年(52歳)まで同地に滞在しました。各地で王の代理として美術品の収集を行うかたわら、「ヴィラ・メディチの庭園」、「鏡のヴィーナス」や「教皇インノケンティウス10世」などの傑作を制作。
1649年(50歳) ローマで「フアン・デ・パレーハの肖像」を制作しました。この作品は、1970年11月27日にロンドンのクリスティー&ウッズで231万ポンドで落札されたとして、かつてギネスブックに「オークションで最高値の絵」として認定されていたことがありました。
1651年(52歳) スペインに帰国。
1652年(53歳) 王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長という重職につき、役人としても多忙となる。一方で、1656年(57歳)には「ラス・メニーナス」を制作し、1657年(58歳)には「織女たち」、1659年には「マルガリータ王女」を完成させる。
1660年(61歳) フェリペ4世の娘であるマリー・テレーズ・ドートリッシュとフランス国王ルイ14世との婚儀の準備をとりしきるが、帰国後病に倒れ、1660年8月6日にマドリードで61歳で死亡。
モーリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』
『亡き王女のためのパヴァーヌ』(Pavane pour une infante défunte)とは、フランスの作曲家モーリス・ラヴェル氏が1899年に作曲したピアノ曲(および1910年にラヴェル自身が編曲した管弦楽曲)です。
「パヴァーヌ」とは16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの宮廷で普及していた行列舞踏。
原題の“infante défunte”は文字どおりには「死んだインファンタ(スペインの王女の称号)」という意味で、原題では韻を踏んだ表現になっています。ラヴェル氏は、これを「亡くなった王女の葬送の哀歌」ではなく「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」だと説明しています。諸説ありますが、ラヴェル氏がルーヴル美術館を訪れたときに見たベラスケス氏のマルガリータ王女の肖像画からこの曲のインスピレーションを得たそうです。(※3)
ベラスケス氏は、マルガリータ王女の肖像画を多く描いています。
まとめ
17世紀のスペインの宮廷の様子がベラスケス氏の作品から垣間見ることができます。同時にベラスケス氏の技術が印象派や後世の画家たちに大きな影響を及ぼし、絵画の歴史を大きく進化、変化させてもいます。ベラスケス氏は温厚な性格だったそうで、作品にもその性格が反映されているように見えます。どこか少し暖かい。それでいて過度に美化することもなく、王族たちの姿を描いています。
ベラスケス氏と同じ17世紀の画家には、オランダ(ネーデルラント)のヨハネス・フェルメール氏、レンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンスなどがいます。
政治、歴史、国が交錯しており、アートや画家ひとりにフォーカスしてみてもさまざまな側面と結ばれており、まるで織物のようです。
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参照
※3