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マイノリティこそが”ヒト”ではなく”人間”としての進歩なのだ

学部時代のレポートでわりあい深いことを考えていたので、今の自分の考えも加えつつ、書き直していこうと思う。
今日は「動物生理学」「進化生物学」の視点を交えた、性的マイノリティについてのお話。
※個人的見解に基づいています。


おっさんずラブがすごかった

つい先日(と言っても、このレポートを書いたのはもう2年前……)、流行には少し遅れたが『おっさんずラブ』というドラマを見た。

同性の上司や後輩から交際を申し込まれた主人公が戸惑いながらも真摯に応えていくというあらすじに、コメディ要素が盛り込まれている。近年ようやく広く認識されるようになってきた性的マイノリティについて、気軽に知ることができた異例の人気ドラマである。
しかしコメディチックな内容かつソフトな描き方とは言え、問題提起もなされている。日本では未だ「男は女と(女は男と)結婚または交際する」「男らしく、女らしく」という常識は根強い。

もともと偏見は無かった(と自分では思っている)から余計に抵抗がなかったのかも知れないが、本当にいいドラマだった。
叶わない恋の切なさや、分からないなりに向き合おうとする主人公の真っ直ぐさに、かなり心を揺さぶられた。

その中でも特に印象的だったのは、同性愛に対する明らかな差別のない世界が描かれていたことだ。
これに感動するのは、現実との差を考えると悲しいことであるし、性的マイノリティの方々からすれば、まだまだ足りないのかも知れない。
でも、貴重な一歩だったのでは、とわたしは希望を持っている。


そう甘くない現実を見る

ドラマでは明らかな周囲からの差別はなかったが、実際はどうだろうか。

幼い頃、ピンクを好むと公言する男の子はいなかった。
中学校時代、BL(ボーイズラブ;男性同士の恋愛を描いたコンテンツ)漫画を読んでいた同級生は気持ち悪いと陰口を言われていた。”腐”女子だなんて……。
実話をもとにした映画『チョコレートドーナツ』では、ゲイカップルが子どもを育てることへの、社会のおぞましい偏見が描かれている。
同性のカップルが入居を断られる賃貸物件も少なくないという。

性別に関わる差別はこんなものではとどまらないのだろう。
差別の対象になる原因でよく指摘されているのは無知による恐れである。知らないから怖い、気持ち悪いために遠ざけたいという感情を少なからず持っていることは、だれしも否定できない。

今ではずいぶん認識されるようになり、理解のある人々も出てきているし、運動も行われている。
わたしは大学に入ってから、こういう話を見聞きしたり講義で学んだりすることが格段に増えた。今後、道徳の義務教育に盛り込まれていけばおそらく、現在よりは知られるようになり、少しはましになるのではと思っている。


歴史を振り返って

しかし、今でこそ性的マイノリティは少数派として区別される人々ではあるが、日本では昔から同性愛の例は多い。

例えば平安時代の貴族では、男性が女性のもとへと通う妻問婚が当たり前であった。そのため、四六時中一緒に居られるわけではなく、意中の相手がいても御簾ごしにしか話せない。そんな中で男性同士の恋愛が生まれたのだと、何かの本で読んだことがある。
さらには戦国時代、織田信長が家臣の蘭丸と関係があった逸話は有名である。近代の小説家の作品(福永武彦『草の花』)でも、男色は珍しいものではない。

それに比べて女性の同性愛の例は歴史的には少ないような気がする(ジェンダー的な問題もあるのだろう)が、無いわけではない。
大奥の中で、また絵画などでも、一部残っているものがあるようである。またある程度の偏見はあるものの、先述したBLと同様に百合(女性同士の恋愛を描いたコンテンツ)がある。性的マイノリティが社会的に認められ始める前からあった、非常に人気のあるジャンルである。


マイノリティと進化(生物学的要素)

性的マイノリティの中でも特に同性愛は、文化としてはかなり寛容な部分も多く、まだ存在を知られている方だ。では、なぜ日本の現実ではこれほど厳しいのだろう?

これには、やはり日本人特有の「家」という考え方が残っているためではないだろうか。すなわち、家を残すためには子どもを作らなくてはならない。血を絶やさぬようにするには、男女で組み合わせを作って子孫を残すしか方法がないのである。
文化を守るために生物学的なシステムが関わるのは興味深い。
社会的文化を得るという生物の理から遠ざかる反面、それを生物学的な繁殖という点で補っている。

生物にもともと性別ができたのは、多様性を持ちあらゆる環境の変化や病から種を守るためであると考えられてきた。
生物の中には、自分と全く同じコピーのような子孫を残すものもいる。こういう生物は繁殖速度がとても速いので、生存競争で他の生物に勝てる。
しかしみんな同じ性質を持っているので、もしある病気が流行してしまったら、全滅する可能性がある。
それに比べて性別がある生物は、自分のことを考えると分かりやすい。お父さんやお母さんに似ているけれど、全く同じではない。兄弟姉妹でも違う。
違う性質を持った個体を作ることで、集団で考えたときに強い(生き残れる)生物が、わたしたち「性的2型」なのだ。

そして生物にとっては、子孫を残す、つまり自分の遺伝子をどれだけ残せるかが勝負である。
自然界の生物に人間の主張するような愛はない。ただ、より生き残りやすい子孫を残すためだけの相手選びと生殖行為だ。
異性カップルが基本の生物の中では、同性カップルは存在しない。もし同性同士で番になる個体が生まれたとしても、その個体は子孫を残せないために自分の遺伝子を次世代に受け継ぐことができない。
よって同性のパートナーを選ぶような遺伝子は、自然淘汰によって消滅し、同性カップルが広まることはないのである。


「種の保存」に背く?

ヒトは文明を発展させることで生物的進化から遠のいた。
生息環境に適応するために、もっと快適で高度な文化にするために、自分自身の体を変化させるのではなく知恵を用いて科学を発明してきたのだ。
もちろん、性的マイノリティもそのうちの1つであるという見方が可能だ。文明が高度になればなるほど、人類は数を増やすことにそれほど執着しなくなる。

つまり極端に言うと、性的マイノリティ特に同性愛は、生物学的にはヒトの個体集団サイズとしての繁栄を逆行する流れであるということになる。
これを簡単に言うと、「人口を増やすという面だけで見ると、同性愛はヒトの繁栄を妨げている」ということだ。
これを目にして、なんだか見たことのあるすごく嫌な感じ……。
と思った人は正解だ。
少し前(これは本当に最近)にそういう発言をした国会議員がいましたね。


性的マイノリティと進歩(文化的要素)

最近、よく「多様性」って言葉を聞きませんか?
性別、人種、年齢、障害……。みんな違ってみんないい。色んな人がいることを認め合おう、それぞれの個性を大事にしようという社会的な動きだ。

でも、「多様性」を勘違いしている人が多いような気がする。
例えば、「みんなと仲良くしなきゃいけない」とか、「絶対に否定してはいけない、嫌だと思っちゃいけない」とか。
ぜひ、実はこれはちょっと違うんだというのを知ってほしい。

多様性を認めるというのは、自分と違う人がいることを認めることで、その全てを自分も受け入れなければならないということではない。
わたしたち日本人だと、分かりやすいのが宗教だろう。
わたしは家が(一応)仏教なのでお葬式は仏教だけれど、クリスマスもやれば、神頼みもする。知人にはキリスト教徒やイスラム教徒の人もいるけれど、それを知っても「そうなんだ」と思うだけ(でも話を聞くと面白い)。
わたしの普段の生活になんの変化もない。ただみんなでご飯を食べるときに、「いただきます」の方法が違ったり、食べられるものとそうでないものが違ったりするだけ。
こう聞くと性的マイノリティだってなんていうことはない、身長や年齢が違うこととそんなに差はない気がしてこないだろうか?

さて、話がずれにずれたが、この多様性を認めるということが、人類の社会的・文化的進歩だ。
大昔には生贄が当たり前にあったけれど、今は無いように、社会というのは科学的進歩だけではなくて、道徳的にも進歩する。
違いを排除するのではなくて、その存在を認められる社会。ようやく、そういう進歩ができる時代に差し掛かってきたのだ。

つまり、性的マイノリティは人類の繁栄から逆行するものではない。
むしろ、進歩し続けた社会文明の最先端にあると言っても過言ではないのだ(これを早く言いたかった)。


進化論

生物にはまるで思考があるかのように思いがちだけれど、現在の生物学では、思考なんてものは無いとされている(はず)。

キリンの首が長くなったのは、高いところの葉を食べるために、キリン自身が首をグイグイ伸ばしたからではない。
たまたま首の長いキリンが生まれてきて、そのキリンだけが周りのキリンが食べられないような高いところの葉を食べることができ、大きく成長できた。もしかすると、天敵を見つけるのも早かったかも知れない。

そうすると、キリンにとっては首が長いほうが生き残るのに有利だ。世代を超えるごとに、長い首を持ったキリンがよく生き残るようになり、短い首のキリンは中々生き残れなくなってしまった。
こうしてキリンに首の短い個体はいなくなってしまい、あたかもキリンの首がニョキニョキ伸びたかのように見えてしまうのだ。

このように、今地球上にいる生物は、”偶然”生き残った個体が、それぞれの厳しい自然環境に”偶然”対応できた結果なのだ。
これがかの有名な『種の起源』でダーウィンが述べた進化論だ。
生物は、自分の繁殖や成長、種の個体数を増やすために生きている。

生物界で繁殖や成長だけを目的とした生涯を持たないのは、思考・理性を得たヒトくらいしかいない。
思考を得たことによって、人間は自分の存在意義を考えるようになった。
それは自然界に則った意義ではなく、理性によって自分で決められる生活である。


進化のルールからの脱却?

思考を得た人類は、必ず異性とパートナーになり、子を作らねばならないという本能から抜け出した。
ずいぶん自由になったと言えるのではないだろうか。

これまで、性的マイノリティの例として同性愛を挙げてきたが、他にも多くの性的指向(どんな性別の人を好きになるか)、また性自認(自分の性が何であるか)がある。

【性自認】
生物学的な性別というのは、遺伝子で決定される。
受精の段階で、父親からX染色体をもらうかY染色体をもらうか、これで性別が決まり、生殖巣も決まる。その後、外部的な身体的性別を決定する生殖器官や、脳の性別(自認の性)が、ホルモンによって形成されていく。
この段階で生殖器官が形成されなかった場合、これはインターセックスと呼ばれる人々のことを指している。脳の性を決定する際にうまくホルモンが働かないと、いわゆるトランスジェンダーとなる。どちらかの性別に決まっていない、xジェンダーと言われる人々もいる。

人類は男性、女性の2つの性別しか無いと思われてきた。
自然淘汰もしくは社会的に淘汰されてきたせいで、今まで存在が少なかったのか、それともわたしたちが気付いていなかっただけなのかは分からない。
けれど、現在では性別ははっきりと区別できるようなものではなくなってきた。性のグラデーションだ。
この無数にある性自認は、ヒトという生物としての繁殖スタイルには全く当てはまらない。

【性的指向】
性自認も多様だが、ゲイ・レズビアンなどの同性愛以外にも、どんな性別の人を好きになるかは様々だ。
男性と女性の両方を好きになれるバイセクシュアル、複数のある決まった性別の人を好きになるポリセクシュアル、好きになるのに性別は関係ないパンセクシュアル。さらに、恋愛感情は持つが性的感情は持たない人もいれば、恋愛感情を持たない人もいる。

特に性的指向の多様性は、生物としての運命から解放された証拠にも思える。
もちろんデフォルトとしての異性を好むことが縛られていると主張したいわけではないが、 “好きになる性”というのは、身体的性別や脳の性別とは異なって、未だ何によって決定されているか証明されていない。
もしかすると、ここが脳と心の境界なのかもしれない。生物であるヒトが他の生物から解離しているのは、心が存在するからという理由に他ならないのではないかと思っている。
たとえ生物学的な繁栄と逆行しようが、好きになる性別の多様性が人間らしさを表すのである。

とかなんとか言って、これも実は進化の罠で、自然の理から抜け出せていないというのも十二分にあり得るのだが……。
(人間も動物なので、驕りすぎるのはよくないですね)


知ること、慣れること、認めること

最近では、オネエやニューハーフと呼ばれる人々の存在は当たり前になってきた。好きになる性別に多様性が認められつつあるように、身体的性別と脳の性別にも選択肢が少しずつ表れている。

諸外国では、日本よりももっと進んでいる国が多くある。同性カップルの結婚や性転換手術に対する壁が低いうえに、周囲の目も差別であふれてはいない。
(今はコロナの影響でほとんどいないけれど)外国人観光客の中には、手を繋いだ仲のよさそうな男性カップルを見かけることがあった。自分の周りで性的マイノリティの人は見たことがなかったので、初めは驚いた。

しかし、驚いたのは初めだけで、もう今では見慣れてしまって何とも思わなくなった。この慣れと基礎的な知識さえあれば、彼らもただの恋人同士に過ぎないことがよく分かる。
かつて鎖国を終えた日本人が、欧米人の外見に驚いたもののこうして見慣れていることと同じなのである。

自分とは異なるものを受け入れることは、それほど容易なことではない。
しかし他人と結婚することだって、自分とは全く違う人を受け入れて共に生きていくことであり、結局は身の回りの色んな事が、どれも延長線上にあるのだと思う。
過去の自分なら不可能だったかもしれないが、今なら周りに性的マイノリティの人がいてもそれほど驚かないだろうし、理解できるだろう。人間は常に、こうして学ぶこと、知ることで前に進んでいる。


最後に

根強いジェンダーや差別のせいで、未だに、性的マイノリティが人類を絶滅に向かわせるものだと言う人も少なくはない。確かに生物学的な繁殖という面に限ってはそうとも言えるが、これは極端な話だ。
生物学的進化を遂げないものにこそ焦点を当て、それを認めることで、人間は進歩してきた。

他にも多くの差別的意見があるだろう。
習慣や風習、常識というのはなかなか失われることはないだろうし、差別も完全に消えることは近いうちにはないかも知れない。
しかし、前例にあるように、少しずつその輪を広げて、新たな自由を獲得するのが人類であると思いたい。

また、性的マイノリティという言葉がようやく浸透してきたが、この言葉にも最近は疑問を感じている。
性にはグラデーションがある。どこかで線を引くことは難しい。
さらに現時点で性的マイノリティと呼ばれる人々は、全体の約10%になるとも言われている。これが果たして少数と言えるのだろうか……。

今までの常識を覆すような新しいことを、自分から進んで知っていくことは、歳を取るごとに難しくなる。
学生の間は受け身でも授業で習う機会があるが、社会に出たらいったい自分はどうなるのだろうと、ふと不安になることがある。ちゃんと最新の道徳文明を追いかけられるだろうかと。
こうして気にしている間は大丈夫だと言い聞かせながら、SNSに翻弄されないようにほんの少しの確かな情報にしがみつきながら、生きていければいいと思う。


ちなみに……

先述した某国会議員の発言「性的マイノリティは種の保存に背く」と、それに賛同する人や不安がる人がいることにあまりにも驚いたので、それへの反論を、文化的にだけでなく生物学的にも述べておこう。
※極論に極論でやり返しています。かなり偏った個人的意見です。

何度も言った通り、生物の進化の過程では多様性が重要だ。
この先、地球で何が起こるかは分からない。
コロナウイルスよりももっと強力な病原体が流行するかもしれないし、地球温暖化が進んでとても暑くなるかもしれない。
彗星が飛んでくるかもしれないし、豪雨で世界中が水中に沈むかもしれない(あれ……と思ったそこの君、見たね?)。
はたまた想像もつかないようなことが起きるかもしれない。人類だっていつ絶滅してもおかしくはない。
とりあえず分からないが、多様であればあるほど生き残りやすい。こういう点で人類の種の保存に一役買っている可能性がある。

また、よくある(?)漫画の設定で、地球上から男性が消える、もしくは極端に少なくなる、という世界を描いているものがある。
これは生物学的には、あながちあり得ない話でもない。
現在、地球上に存在する生物のなかには、
・普段はメスしか存在せず、繁殖の際にしかオスが現れない種
・オス機能を持ったメス(雌雄同体)のみが存在する種
というのがある。
生物学では、オスよりもメスに栄養を投資して、いい卵を作ろう!という戦略(実際に生物が考えたわけではないが)がよくある。

何かのはずみで片方の性がすごく多くなったり少なくなったりして、そのうち同性同士で子どもが作れるようになる時が来るかもしれない。
オスとメス両方が同じくらい存在するのが、必ずしもいいというわけではない。
自然界では、その環境に最も適したものが勝者なのだ。

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